2021年09月20日

2021年9月19日主日礼拝

2021年9月19日聖霊降臨節第18主日礼拝

<教会学校>
聖書  マルコ福音書8章1−10節
説教  「四千人にパンを与える」佐々木兄
出席  幼小2、中高0、父母1、教師10

<主日礼拝>
聖書   エフェソの信徒への手紙5章1−14節
讃美歌  4, 339, 332
交読詩編 119編33−48節
説教   「新しい生き方」小友絹代牧師
出席   25名(子供1)
*今週22日(水)午後10:30から聖書研究祈祷会があります。また、25日(土)午後2:30-3:30に讃美歌カフェ
があります。
<説教要旨>
*ここでは、キリストを信じる者は具体的にどのようになるかが教えられている。「神に倣う者になれ」とは、ここにしかない言葉。神に愛され、神の子とされたのだから、神に倣う者となれということだが、神が何をしてくださったかをたえず思い起こさねばならない。神の子が十字架で死を遂げる以外に我々の罪はなくならないのである。だからこそ、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに許し合いなさい」(4章32節)ということがわかる。
*主の祈りの中で、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」が重要である。自分がどれほど赦されているかがわかるから、他者を赦すことができるのである。マタイ18章の例え話。主人のお蔭で、一生返せない借金を赦された家来が、3か月分の給料ほどの金を貸した負債者をゆることができなかった。主人はこの家来に「私がお前を憐れんでやったように、お前も憐れんでやるやるべきではなかったか」と問うた。それは、キリストが我々に語りかける言葉である。我々もそのように赦す生き方をすべきではないか。これが新しい生き方である。光の子とされたのだから、キリストを証する生き方をしようではないか。
posted by nakamuracho at 10:53| Comment(0) | 礼拝記録

2021年09月12日

2021年9月12日主日礼拝

2021年9月12日聖霊降臨節第17主日

<教会学校>
聖書   マルコ7章31−37節
説教   「耳が聞こえず舌が回らない人をいやす」久慈姉
出席   幼小2、中高1、父母1、教師8

<主日礼拝>
聖書   ヤコブの手紙2章8−13節
讃美歌  9、369、二編173
交読詩編 98編
説教   「隣人を愛する」小友聡牧師
出席   26名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会をしました。
<説教要旨>
*今日のヤコブの手紙で、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の戒めについて
問われます。ヤコブの手紙では、きらびやかな服を着た人と汚れた服を着た貧しい人への
対応について、分け隔てをしていることが厳しく指摘されます。分け隔てをすることが、
隣人を愛することを守ることなのか、と。
*ヤコブの手紙は「信仰のみ」で生きる、私たちの信仰の中身を問うています。キリスト
を信じる信仰によって義とされた私たちは、隣人を愛することへと促されます。しかしそ
の隣人愛は真実なものでなければなりません。
*このことを良きサマリヤ人の譬えが教えます(ルカ10章)。律法の専門家は隣人愛を実行
していると自慢しましたが、誰が自分の隣人かがわかりませんでした。祭司やレビ人は傷つ
いた旅人に無関心でした。それは「分け隔てする」ことです。それに対して、サマリヤ人は
傷ついた旅人を放っておけず、介抱しました。分け隔てをしないで愛することをこのサマリ
ヤ人が教えてくれます。マザー・テレサは「愛の反対は無関心です」と言いました。これが
今日の御言葉を深く教えてくれます。
posted by nakamuracho at 12:55| Comment(0) | 礼拝記録

2021年09月05日

2021年9月5日主日礼拝

2021年9月5日聖霊降臨節第16主日

<教会学校>
聖書   マルコ7章24−30節
説教   「シリア・フェニキアの女の信仰を受け入れる」小林姉
出席   幼小2、中高0、父母1、教師9

<主日礼拝>
聖書   第一コリント1章10−17節
讃美歌  8, 194, 191
交読詩編 48編
説教   「思いを一つに」小友聡牧師
出席   38名(子供1)、陪餐33名
*礼拝において聖餐式をいたしました。
*礼拝後に役員会がありました。
*8日(水)午後10:30から聖書研究祈祈祷会があります。
<説教要旨>
*パウロはコリント教会に、「心を一つに」と勧めます。それは、コリント教会は「私はパウロに付く」
「アポロに」「ケファに」「キリストに」という具合に、分派に分かれる分裂状態にあったからです。それはいわばキリストの体が引き裂かれていること。パウロはそれを憂えて、「心を一つに」と書いたのです。
*しかし、最後に「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり」と書かれています。洗礼を授けることは教会の使命ですが、それを否定するかのような言い方でパウロは「福音を告げ知らせるため」と言うのです。そこにコリント教会の現実の深刻さが見えてきます。「私はキリストに付く」というキリスト派も分裂を齎すのです。
*「心を一つに」を強調しすぎると、そうでない人たちを排除することになります。教会が心を一つにするためには、自分の考えを主張しすぎず、先鋭化せず、寛容に他者の意見にも耳を傾け続ける。そういう態度が必要です。今、コロナ禍にある教会が「心を一つに」するためには、寛容ということが欠かせないのです。それはキリストの福音に基づくメッセージです。
posted by nakamuracho at 14:10| Comment(0) | 礼拝記録