2021年05月02日

2021年5月2日主日礼拝

2021年5月2日復活節第5主日

<教会学校>
聖書  マルコ福音書1章16−20節
説教  「最初の弟子たちを召す」土肥姉
出席  幼小0、中高0、父母0、教師9

<主日礼拝>
聖書   ヨハネ福音書14章1−11節
讃美歌  7、228,332
交読詩編 84編
説教   「私は道である」小友聡牧師
出席   25名(子供1)
*先週礼拝後に教会総会が開催されました。現住陪餐会員21名出席(陪席3)。予定通り、すべての議事
を終えました。新年度の教会標語は「御言葉を食べ、御言葉を楽しむ」です。役員改選により、鹿村兄、
古宮姉、榮田姉(以上、再選)、藤田洋一兄が選ばれました。
*礼拝後に役員会がありました。
*手作りマーマレードを販売します。

<説教要旨>
*ヨハネ福音書14章は葬儀で読まれる箇所であるが、どういう意味かがわかりにくい。主イエスが語られた言葉を弟子たちは理解できなかったが、私たちも同じである。はっきりしていることは、主イエスが御自分が父と一つだと言っていることであり、また私の家には住む場所がたくさんあるということである。
*主イエスは十字架の死によって、そのように御自分が道となり、私たちの贖いとなってくださった。このことを主イエスは教えたのであり、私たちは信じることにより天国という場所に招かれている、と言われたのである。しかし、私たちがキリストを信じるとは、天の父が用意しる場所にすでに私たちがいるということだ。キリストを信じることで、すでに、今、ここで「あなたは父の許にいる」と言われたのである。
*主イエスが用意される場所に私たちはすでに招かれている。それはどういうことだろうか。私たちは教会生活において、涙を拭われる経験を何度もしているではないだろうか。主イエスの言葉によって今日も慰めを与えられているではないか。主が私たちにために場所を用意され、その場所にいるとはそういうことを言っているのである。ハイデルベルク信仰問答の最初を思い出してほしい。生きる時も死ぬ時も私たちの唯一の慰めは、私たちがキリストのものとされているということである。死ぬ時も、今こうして生きる時も、私たちの慰めは、私たちがキリストのものとされている。永遠の命を私たちはすでに与えられているのである。
posted by nakamuracho at 17:31| Comment(0) | 礼拝記録