2021年9月26日聖霊降臨節第19主日
<教会学校>
聖書 マルコ福音書8章27−30節
説教 「ペトロ、信仰を告白する」
出席 幼小3、中高1、父母1、教師9
<主日礼拝>
聖書 テサロニケの信徒への手紙二3章6−13節
讃美歌 10, 536, 367
交読詩編 詩編84編
説教 「労働の意味」
出席 25名(子供0)
*創立70周年記念誌を発行することになり、教会員の皆さんに寄稿をお願いすることになりました。
<説教要旨>
*今日の聖書の箇所は労働が問題になっている。パウロは「働こうとしない者は、食べてはならない」
と言い、怠惰を厳しくを戒める。けれども、これは働かない者に食物を与えなくてよいという弱者切り
捨ての冷酷な戒めではない。当時、終末到来の切迫によって働くことを止めてしまった人たちへのパウ
ロの批判なのである。
*聖書の言葉は労働ということを教える。宗教改革者ルターは労働をベルーフと呼んだ。それは神に呼び
出され、召し出されたという意味。どんな職業も、自分に与えられた仕事として誇りを持ち、誠実に忠実
に励むことで、神の栄光を現わすのである。日本基督教団の生活綱領にも「勤労の生涯を全うすること」
が信仰者の目標となっている。これが今日の御言葉の意味を教える。
*主イエスは労働をどう考えているか。マタイ20章の「ぶどう園の労働者の譬え」では、労働者は主人に
よって呼び出されて働くのである。それは、労働が神から与えられた賜物であるということ。その与えら
れた仕事を全力でやり遂げる。報酬は同じなのである。
*大事なことは、どのような状況や境遇であっても、与えられた務めを最後まで果たすということである。
労働とは、それぞれ自分の人生を生きるということ。だから投げ出してはならず、諦めてはならないのだ。
終わりの時まで働くということである。三浦綾子さんは、晩年、寝たきりになるが、「わたしにはまだ死ぬ
という神様から与えられた仕事があります」と、どこまでも前向きであった。私たちもそういう生き方をす
るよう招かれている。
2021年09月26日
2021年9月26日主日礼拝
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| 礼拝記録
2021年09月20日
2021年9月19日主日礼拝
2021年9月19日聖霊降臨節第18主日礼拝
<教会学校>
聖書 マルコ福音書8章1−10節
説教 「四千人にパンを与える」佐々木兄
出席 幼小2、中高0、父母1、教師10
<主日礼拝>
聖書 エフェソの信徒への手紙5章1−14節
讃美歌 4, 339, 332
交読詩編 119編33−48節
説教 「新しい生き方」小友絹代牧師
出席 25名(子供1)
*今週22日(水)午後10:30から聖書研究祈祷会があります。また、25日(土)午後2:30-3:30に讃美歌カフェ
があります。
<説教要旨>
*ここでは、キリストを信じる者は具体的にどのようになるかが教えられている。「神に倣う者になれ」とは、ここにしかない言葉。神に愛され、神の子とされたのだから、神に倣う者となれということだが、神が何をしてくださったかをたえず思い起こさねばならない。神の子が十字架で死を遂げる以外に我々の罪はなくならないのである。だからこそ、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに許し合いなさい」(4章32節)ということがわかる。
*主の祈りの中で、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」が重要である。自分がどれほど赦されているかがわかるから、他者を赦すことができるのである。マタイ18章の例え話。主人のお蔭で、一生返せない借金を赦された家来が、3か月分の給料ほどの金を貸した負債者をゆることができなかった。主人はこの家来に「私がお前を憐れんでやったように、お前も憐れんでやるやるべきではなかったか」と問うた。それは、キリストが我々に語りかける言葉である。我々もそのように赦す生き方をすべきではないか。これが新しい生き方である。光の子とされたのだから、キリストを証する生き方をしようではないか。
<教会学校>
聖書 マルコ福音書8章1−10節
説教 「四千人にパンを与える」佐々木兄
出席 幼小2、中高0、父母1、教師10
<主日礼拝>
聖書 エフェソの信徒への手紙5章1−14節
讃美歌 4, 339, 332
交読詩編 119編33−48節
説教 「新しい生き方」小友絹代牧師
出席 25名(子供1)
*今週22日(水)午後10:30から聖書研究祈祷会があります。また、25日(土)午後2:30-3:30に讃美歌カフェ
があります。
<説教要旨>
*ここでは、キリストを信じる者は具体的にどのようになるかが教えられている。「神に倣う者になれ」とは、ここにしかない言葉。神に愛され、神の子とされたのだから、神に倣う者となれということだが、神が何をしてくださったかをたえず思い起こさねばならない。神の子が十字架で死を遂げる以外に我々の罪はなくならないのである。だからこそ、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに許し合いなさい」(4章32節)ということがわかる。
*主の祈りの中で、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」が重要である。自分がどれほど赦されているかがわかるから、他者を赦すことができるのである。マタイ18章の例え話。主人のお蔭で、一生返せない借金を赦された家来が、3か月分の給料ほどの金を貸した負債者をゆることができなかった。主人はこの家来に「私がお前を憐れんでやったように、お前も憐れんでやるやるべきではなかったか」と問うた。それは、キリストが我々に語りかける言葉である。我々もそのように赦す生き方をすべきではないか。これが新しい生き方である。光の子とされたのだから、キリストを証する生き方をしようではないか。
posted by nakamuracho at 10:53| Comment(0)
| 礼拝記録
2021年09月12日
2021年9月12日主日礼拝
2021年9月12日聖霊降臨節第17主日
<教会学校>
聖書 マルコ7章31−37節
説教 「耳が聞こえず舌が回らない人をいやす」久慈姉
出席 幼小2、中高1、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 ヤコブの手紙2章8−13節
讃美歌 9、369、二編173
交読詩編 98編
説教 「隣人を愛する」小友聡牧師
出席 26名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会をしました。
<説教要旨>
*今日のヤコブの手紙で、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の戒めについて
問われます。ヤコブの手紙では、きらびやかな服を着た人と汚れた服を着た貧しい人への
対応について、分け隔てをしていることが厳しく指摘されます。分け隔てをすることが、
隣人を愛することを守ることなのか、と。
*ヤコブの手紙は「信仰のみ」で生きる、私たちの信仰の中身を問うています。キリスト
を信じる信仰によって義とされた私たちは、隣人を愛することへと促されます。しかしそ
の隣人愛は真実なものでなければなりません。
*このことを良きサマリヤ人の譬えが教えます(ルカ10章)。律法の専門家は隣人愛を実行
していると自慢しましたが、誰が自分の隣人かがわかりませんでした。祭司やレビ人は傷つ
いた旅人に無関心でした。それは「分け隔てする」ことです。それに対して、サマリヤ人は
傷ついた旅人を放っておけず、介抱しました。分け隔てをしないで愛することをこのサマリ
ヤ人が教えてくれます。マザー・テレサは「愛の反対は無関心です」と言いました。これが
今日の御言葉を深く教えてくれます。
<教会学校>
聖書 マルコ7章31−37節
説教 「耳が聞こえず舌が回らない人をいやす」久慈姉
出席 幼小2、中高1、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 ヤコブの手紙2章8−13節
讃美歌 9、369、二編173
交読詩編 98編
説教 「隣人を愛する」小友聡牧師
出席 26名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会をしました。
<説教要旨>
*今日のヤコブの手紙で、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の戒めについて
問われます。ヤコブの手紙では、きらびやかな服を着た人と汚れた服を着た貧しい人への
対応について、分け隔てをしていることが厳しく指摘されます。分け隔てをすることが、
隣人を愛することを守ることなのか、と。
*ヤコブの手紙は「信仰のみ」で生きる、私たちの信仰の中身を問うています。キリスト
を信じる信仰によって義とされた私たちは、隣人を愛することへと促されます。しかしそ
の隣人愛は真実なものでなければなりません。
*このことを良きサマリヤ人の譬えが教えます(ルカ10章)。律法の専門家は隣人愛を実行
していると自慢しましたが、誰が自分の隣人かがわかりませんでした。祭司やレビ人は傷つ
いた旅人に無関心でした。それは「分け隔てする」ことです。それに対して、サマリヤ人は
傷ついた旅人を放っておけず、介抱しました。分け隔てをしないで愛することをこのサマリ
ヤ人が教えてくれます。マザー・テレサは「愛の反対は無関心です」と言いました。これが
今日の御言葉を深く教えてくれます。
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| 礼拝記録