2021年12月19日待降節第4主日
<教会学校クリスマス礼拝>
聖書: ルカ福音書2章1−7節
説教: 「主イエスの誕生」小友聡牧師
出席: 幼小5、中高2、父母4、教師11
<クリスマス主日礼拝>
聖書: ルカ福音書2章1−20節
讃美歌: 102、106、98
交読詩編:100編
説教: 「キリストの降誕」小友聡牧師
出席: 46名(子供1)
*礼拝において、聖餐式を執行しました。
*24日(金)午後6時から燭火礼拝があります。
*25日(土)午後2時30分から讃美歌カフェがあります。
<説教要旨>
*ルカ福音書が語るクリスマスの出来事は、きらびやかなローマ皇帝の王宮ではなく、それとは対照的に、世界の片隅の「飼い葉桶」のある家畜小屋がその舞台となります。また、救い主の誕生は私たちに呼びかけられているという意味があります。礼拝共同体から除外されていた羊飼いたちに、クリスマスの到来が真っ先に伝えられるのです。
*この聖書の物語は、コロナ禍でクリスマスを迎える私たちに深い意味があります。私たちは自宅に引きこもる孤独な生活を余儀なくされているからです。閉ざされた場所という意味で「飼い葉桶」に眠る救い主は、私たちに慰めを与えます。しかし、救い主はインマヌエルと呼ばれます。それは、「神は我々と共におられる」という意味です。私たちと共にいるためにキリストは生まれました。それは、私たちは見捨てられているのではないということです。私たちと共にいるために、救い主はお生まれになったのです。
*飼い葉桶に眠るキリストは、棺の中で布にくるまれて眠る遺体をも示唆します。飼い葉桶は、私たちのために到来されたキリストの決意を示します。私たちの罪を贖うために、キリストは十字架で死を遂げるのです。飼い葉桶は、そのキリストの死を先取りしていると言わざるを得ません。そのキリストが私たちに「終わりまで私はあなたと共にいる」と言われます。私たちはこの慰めの言葉を聞くのです。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」
2021年12月19日
2021年12月19日クリスマス礼拝
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2021年12月12日
2021年12月12日主日礼拝
2021年12月12日待降節第3主日
<教会学校>
聖書 マタイ福音書1章18−25節
説教 「ヨセフへの御告げ」小友聡牧師
出席 幼小4、中高1、父母2、教師10
<主日礼拝>
聖書 イザヤ書40章1−12節
讃美歌 11, 94, 95
交読詩編 85編
説教 「呼びかける声」小友絹代牧師
出席 34名(子供1)
*次週はクリスマス礼拝です。
*24日夕方6時からクリスマスイブ燭火礼拝があります。
<説教要旨>
*第2イザヤは捕囚期の無名の預言者である。捕囚期はいわば荒れ野の時代。それは心の荒れ野の時代
でもあった。捕囚民は奴隷ではなかった。しかし、心が荒廃し、虚無感が支配し、絶望状態であった。
神は我々を見捨てたのではないかという無力感によって、捕囚民の信仰は危機状態にあった。
*第2イザヤも同じであった。だからこそ、彼が召命を与えられたのである。神の言葉はとこしえに立つ
と語ったのである。現実は悲惨だけれど、神は天においてすでに計画を決定しておられる。預言者はそれ
を語りさえすればよいのである。
*第2イザヤは捕囚民と同じように疲れ切っていた。しかし神によって再生を与えられた。自らは呼びかけ
る声にすぎなかった。しかし、彼は無名であることを貫き通した。それは洗礼者ヨハネと同じである。「荒れ
野で呼ばわる声がする」と彼は語った。その声になりきる。キリストを紹介して消えていく声になりきる。生きた証は残せなくてもよい。第2イザヤにように、洗礼者ヨハネのように、キリストを証する声になりきる人になろう。
<教会学校>
聖書 マタイ福音書1章18−25節
説教 「ヨセフへの御告げ」小友聡牧師
出席 幼小4、中高1、父母2、教師10
<主日礼拝>
聖書 イザヤ書40章1−12節
讃美歌 11, 94, 95
交読詩編 85編
説教 「呼びかける声」小友絹代牧師
出席 34名(子供1)
*次週はクリスマス礼拝です。
*24日夕方6時からクリスマスイブ燭火礼拝があります。
<説教要旨>
*第2イザヤは捕囚期の無名の預言者である。捕囚期はいわば荒れ野の時代。それは心の荒れ野の時代
でもあった。捕囚民は奴隷ではなかった。しかし、心が荒廃し、虚無感が支配し、絶望状態であった。
神は我々を見捨てたのではないかという無力感によって、捕囚民の信仰は危機状態にあった。
*第2イザヤも同じであった。だからこそ、彼が召命を与えられたのである。神の言葉はとこしえに立つ
と語ったのである。現実は悲惨だけれど、神は天においてすでに計画を決定しておられる。預言者はそれ
を語りさえすればよいのである。
*第2イザヤは捕囚民と同じように疲れ切っていた。しかし神によって再生を与えられた。自らは呼びかけ
る声にすぎなかった。しかし、彼は無名であることを貫き通した。それは洗礼者ヨハネと同じである。「荒れ
野で呼ばわる声がする」と彼は語った。その声になりきる。キリストを紹介して消えていく声になりきる。生きた証は残せなくてもよい。第2イザヤにように、洗礼者ヨハネのように、キリストを証する声になりきる人になろう。
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2021年12月05日
2021年12月5日主日礼拝
2021年12月5日待降節第2主日
<教会学校>
聖書 ルカ福音書1章26−38節
説教 「マリアへの御告げ」小林姉
出席 幼小4、中高0、父母3、教師8
<主日礼拝>
聖書 エレミヤ書36章1−10節
讃美歌 10, 96, 501
交読詩編 20編
説教 「預言者の言葉」小友聡牧師
出席 40名(子供1)
*今週8日(水)聖書研究祈祷会があります。
<説教要旨>
*預言者エレミヤはイスラエルの激動の時代を生きた。10代の若者の頃に召命を受けた。エレミヤは
神の言葉を語り続けたが、語ってもそれを人々は聞こうとしなかった。そこに預言者の苦しみがあった。
*ユダ王国が滅亡に向かう時代、人々は神の御心を知ろうとはしない。神は過ちと罪を赦そうとしてい
たのに。エレミヤの言葉をバルクは巻物に書き、それがヨヤキム王の前で読まれたが、ヨヤキム王はそ
れを切り刻んで暖炉で燃やしてしまった。その後、ユダ王国は滅び、エレミヤの預言は成就した、。
*エレミヤの預言で最も重要なのは、「新しい契約の預言」をしたこと。31章にその預言が記されてい
る。終わりの日に、神自らが民の心に律法の言葉を授け、すべての罪を赦するという預言である。それ
は、神が救い主が十字架で死を遂げ、すべての罪を贖うということを予告している。その救い主の到来
をエレミヤは預言したのだ。
*エレミヤは苦難の預言者である。孤独と苦難の中を歩み、苦しみながら神の言葉を語った。預言者た
ちはそのようにして、救い主の到来を語った。そのクリスマスがやって来る。エレミヤの生き方が私た
ちに励ましを与える。
ミヤの生き方そのものが、私たちに
<教会学校>
聖書 ルカ福音書1章26−38節
説教 「マリアへの御告げ」小林姉
出席 幼小4、中高0、父母3、教師8
<主日礼拝>
聖書 エレミヤ書36章1−10節
讃美歌 10, 96, 501
交読詩編 20編
説教 「預言者の言葉」小友聡牧師
出席 40名(子供1)
*今週8日(水)聖書研究祈祷会があります。
<説教要旨>
*預言者エレミヤはイスラエルの激動の時代を生きた。10代の若者の頃に召命を受けた。エレミヤは
神の言葉を語り続けたが、語ってもそれを人々は聞こうとしなかった。そこに預言者の苦しみがあった。
*ユダ王国が滅亡に向かう時代、人々は神の御心を知ろうとはしない。神は過ちと罪を赦そうとしてい
たのに。エレミヤの言葉をバルクは巻物に書き、それがヨヤキム王の前で読まれたが、ヨヤキム王はそ
れを切り刻んで暖炉で燃やしてしまった。その後、ユダ王国は滅び、エレミヤの預言は成就した、。
*エレミヤの預言で最も重要なのは、「新しい契約の預言」をしたこと。31章にその預言が記されてい
る。終わりの日に、神自らが民の心に律法の言葉を授け、すべての罪を赦するという預言である。それ
は、神が救い主が十字架で死を遂げ、すべての罪を贖うということを予告している。その救い主の到来
をエレミヤは預言したのだ。
*エレミヤは苦難の預言者である。孤独と苦難の中を歩み、苦しみながら神の言葉を語った。預言者た
ちはそのようにして、救い主の到来を語った。そのクリスマスがやって来る。エレミヤの生き方が私た
ちに励ましを与える。
ミヤの生き方そのものが、私たちに
posted by nakamuracho at 14:16| Comment(0)
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