2022年3月27日受難節第4主日
<教会学校>
聖書 マルコ福音書15章1−15節
説教 「主イエス、ピラトから死刑判決を受ける」藤川姉
出席 幼小2、中高0、父母1、教師7
<主日礼拝>
聖書 マルコ福音書9章2−10節
讃美歌 15, 324,332
交読詩編 30編
説教 「キリストの変容」小友聡牧師
出席 32名(子供1)
*礼拝前に臨時役員会がありました。
*礼拝後に大掃除をしました。
<説教要旨>
*主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に上った。その山で主イエスの姿が変わり、真っ白に輝いた。するとモーセとエリヤが現れた。そして、雲の中から「これは私の愛する子、これに聞け」という声が聞こえた。主イエスの変容は、主イエスが神から遣わされた救い主であることを示すと同時に、これから苦難の道を歩み、十字架の死を遂げ、復活することを示したのである。ペトロたちはそれを理解できなかった。
*モーセとエリヤが現れたのは、旧約における神の救済計画が主イエスに置いて成就するということを証言している。しまし、モーセとエリヤは苦難を経験した人物であることが重要である。したがって、「これは私の愛する子、これに聞け」という信仰への促しにおいて、信じることが苦難と結びつくことが示唆される。パウロ曰く「あなたがたはキリストを信じるだけでなく、キリストのゆえに苦しむことも恵みとして与えられている(フォリピ1:29)。キリストを信じて歩んでも、苦難があり、無力感に襲われる。しかし、私たちが主を信じることにおいて苦しむことが含まれているのだ。主を信じて歩んで行こう。
2022年03月27日
2022年3月27日主日礼拝
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| 礼拝記録
2022年03月20日
2022年3月20日主日礼拝
2022年3月20日受難節第3主日
<教会学校>
聖書 マルコ福音書14章66−72節
説教 「ペトロ、主イエスを知らないと言う」
出席 幼小3、中高1、父母2、教師8
<主日礼拝>
聖書 マルコ福音書8章27−33節
讃美歌 14, 336, 276,
交読詩編 31編10−25節
説教 「受難の予告」小友絹代牧師
出席 33名(子供1)
*礼拝後にバザー委員会がありました。今年11月3日の教会バザーは中止とし、5月20日(日)礼拝後に教会内ミニバザーを開催することになりました。
*今週23日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会、26日(土)午後2:30より讃美歌カフェがあります。
*次週礼拝前10:00より臨時役員会をいたします。
<説教要旨>
*ペトロは信仰を告白した。それは、エルサレムではなく、フィリポ・カイザリヤという異教的な土地であった。我々も教会の中で主を告白するのではなく、それが受け入れられない場所で主を告白するのである。
*主イエス御自身がペトロに問い、答えを求めたことが重要。しかし、ペトロに対しそのことを誰にも話すなと主イエスは言われた。それは、信仰告白とは政治的メシアではなく、贖罪者キリストを信じることだからである。ペトロはまだそのことが分からなかった。だから、主イエスの受難を聞いて、主イエスを諫めたのである。ペトロは何もわかっていなかった。救いとは罪の赦しである。それは神の子キリストの死によってしかなされえない。なぜ主イエスは受難の道を歩むのか。その意味をペトロと同様、我々もまた知らねばならない。
<教会学校>
聖書 マルコ福音書14章66−72節
説教 「ペトロ、主イエスを知らないと言う」
出席 幼小3、中高1、父母2、教師8
<主日礼拝>
聖書 マルコ福音書8章27−33節
讃美歌 14, 336, 276,
交読詩編 31編10−25節
説教 「受難の予告」小友絹代牧師
出席 33名(子供1)
*礼拝後にバザー委員会がありました。今年11月3日の教会バザーは中止とし、5月20日(日)礼拝後に教会内ミニバザーを開催することになりました。
*今週23日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会、26日(土)午後2:30より讃美歌カフェがあります。
*次週礼拝前10:00より臨時役員会をいたします。
<説教要旨>
*ペトロは信仰を告白した。それは、エルサレムではなく、フィリポ・カイザリヤという異教的な土地であった。我々も教会の中で主を告白するのではなく、それが受け入れられない場所で主を告白するのである。
*主イエス御自身がペトロに問い、答えを求めたことが重要。しかし、ペトロに対しそのことを誰にも話すなと主イエスは言われた。それは、信仰告白とは政治的メシアではなく、贖罪者キリストを信じることだからである。ペトロはまだそのことが分からなかった。だから、主イエスの受難を聞いて、主イエスを諫めたのである。ペトロは何もわかっていなかった。救いとは罪の赦しである。それは神の子キリストの死によってしかなされえない。なぜ主イエスは受難の道を歩むのか。その意味をペトロと同様、我々もまた知らねばならない。
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| 礼拝記録
2022年03月13日
2022年3月13日主日礼拝
2022年3月13日受難節第2主日礼拝
<教会学校>
聖書 マルコ福音書14章53−65節
説教 「最高法院で裁判を受ける」小林姉
出席 幼小3、中高2、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 マルコ福音書3章20−27節
讃美歌 12, 241, U57
交読詩編 130編
説教 「寄り添うキリスト」小友聡牧師
出席 34名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
*Eテレ「それでも生きる」再放送シリーズ最終回は3月20日(日)朝5時〜です。
<説教要旨>
*主イエスの家族が主イエスのことを聞いて取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからだと
聖書に書かれている。律法学者も主イエスがベルゼブルに取りつかれていると考え、主イエスを中傷した。
*「気が変になる」主イエスの振る舞いは、11章の宮清めにも現れている。主イエスが我を忘れて振舞う、その先には十字架がある。十字架で主イエスは私たちのために贖いの死を遂げた。主イエスがなぜ「気が変になる」振る舞いをするのか。それは、私たちのためでなかったか。
*主イエスは気が変になるほど、気が変にならねばならないほど、それほどに私たちを愛され、私たちに寄り添ってくださった。だから、主イエスは片手が萎えた人に寄り添い、病気に悩む人々に寄り添ったのである。
*主イエスは私たちに寄り添うお方である。気が変になるほど、私たちに寄り添ってくださる。私たちは一人ぼっちではない。私たちはキリストに寄り添われて生きるのである。
<教会学校>
聖書 マルコ福音書14章53−65節
説教 「最高法院で裁判を受ける」小林姉
出席 幼小3、中高2、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 マルコ福音書3章20−27節
讃美歌 12, 241, U57
交読詩編 130編
説教 「寄り添うキリスト」小友聡牧師
出席 34名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
*Eテレ「それでも生きる」再放送シリーズ最終回は3月20日(日)朝5時〜です。
<説教要旨>
*主イエスの家族が主イエスのことを聞いて取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからだと
聖書に書かれている。律法学者も主イエスがベルゼブルに取りつかれていると考え、主イエスを中傷した。
*「気が変になる」主イエスの振る舞いは、11章の宮清めにも現れている。主イエスが我を忘れて振舞う、その先には十字架がある。十字架で主イエスは私たちのために贖いの死を遂げた。主イエスがなぜ「気が変になる」振る舞いをするのか。それは、私たちのためでなかったか。
*主イエスは気が変になるほど、気が変にならねばならないほど、それほどに私たちを愛され、私たちに寄り添ってくださった。だから、主イエスは片手が萎えた人に寄り添い、病気に悩む人々に寄り添ったのである。
*主イエスは私たちに寄り添うお方である。気が変になるほど、私たちに寄り添ってくださる。私たちは一人ぼっちではない。私たちはキリストに寄り添われて生きるのである。
posted by nakamuracho at 13:17| Comment(0)
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