2022年04月24日

2022年4月24日主日礼拝

2022年4月24日復活節第2主日

<教会学校>
聖書  創世記1章1−10節
説教  「天地創造」奥野姉
出席  幼小4、中高2、父母2、教師8

<主日礼拝>
聖書   ヨハネ福音書20章19−31節
讃美歌  55、151、243
交読詩編 111編
説教   「トマスの信仰」小友聡牧師
出席   37名(子供1)
*礼拝後に教会総会がありました。
*27日(水)聖書研究祈祷会があります。
*5月22日(日)礼拝後に教会ミニバザーをします。献品を募ります。

<説教要旨> 
*主イエス復活の夕方、弟子たちの集まりに復活の主が現れ、「平和があるように」と言われました。その中にトマスはいませんでした。弟子たちは皆、復活の主イエスを証言しましたが、トマスは「自分はその手に傷跡を見、脇腹に手を差し入れなければ信じない」と言いました。
*しかし、八日後の日曜日、弟子たちが集まっていると、再び復活の主イエスが現れました。主はトマスに「私の傷跡を見よ、手を脇腹に入れて見よ。信じる者になれ」と言われました。トマスは主の前にひれ伏し、「わが主よ、わが神よ」と言いました。これはトマスが信仰を告白し、主イエスを礼拝したということです。
*トマスは復活を探究し、客観性を探究しようとしました。しかし、それによって得られるのは「キリストについて知ること」であり、「キリストに出会うこと」ではないのです。キリストとの出会いは、このお方に3人称ではなく、2人称で出会うこと。出会いとは常に2人称です。キリストというお方に出会う。私と言う存在に向かって「あなた」と呼びかけて下さるお方に出会わなければ、また、私自身がこのお方に向かって呼びかけることがなければ、出会いは起こらないのです。トマスが「わが主よ、わが神よ」とひれ伏したとき、初めてキリストとの出会いが生まれました。私たちもキリストを信じ、またキリストに出会うために、礼拝に招かれています。
posted by nakamuracho at 15:08| Comment(0) | 礼拝記録

2022年04月17日

2022年4月17日主日礼拝

2022年4月17日イースター礼拝
<教会学校>
聖書 マルコ福音書16章9−18節
説教 「主イエス、復活される」佐々木兄
出席 幼小4、中高2、父母2、教師9

<主日礼拝>
聖書   ヨハネ福音書20章11−18節
讃美歌  20、154、156
交読詩編 66編1−9節
説教  「キリストの復活」
出席   44名(子供1)
*礼拝において聖餐式を執行しました。
*礼拝後に記念撮影をしました。
*次週礼拝後に教会総会をします。
*今週23日(土)午後2:30−4:00に讃美歌カフェがあります。

<説教要旨>
*主イエスの復活の朝、マグダラのマリヤは主イエスの墓に向かった。しかし、彼女は悲嘆に暮れていた。
マリヤは主イエスに従う女性であったが、彼女が探しているのは死体となった主イエスであった。それは、つまり十字架で終わる信仰の限界である。
*しかし、主イエスは生きておられる。死を滅ぼし、復活された。主イエスはマリヤの名を呼んでくださる。絶望の朝が希望の朝になった。主イエスは生きている。だからもう泣く必要はないのだ。キリストは今、生きておられる。マリヤにとって日曜日は復活の朝である。復活の主に出会う者はこのことを人々に伝えずにはおかない。
posted by nakamuracho at 14:23| Comment(0) | 礼拝記録

2022年04月10日

2022年4月10日主日礼拝

2022年4月10日受難節第6主日
<教会学校>
聖書   マルコ福音書15章33−41節
説教   「主イエス、息を引き取られる」関姉
出席   幼小3、中高4、父母2、教師8

<主日礼拝>
聖書   マルコ福音書14章32−42節
讃美歌  54、133、二編182
交読詩編 118編19−29節
説教   「十字架への道」小友聡牧師
出席   37名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
*礼拝後に有志で教会墓地へ墓参をしました。
*13日(水)午前10時半より聖書研究祈祷会、15(金)午後3時より受難週祈祷会、
16日(土)午後1時半よりイースターエッグ作り、があります。
*24日(日)礼拝後に教会総会をいたします。

<説教要旨>
*主イエスは3年於弟子を連れ、ゲツセマネで祈りました。弟子たちには、目を覚まして待っていなさいと伝えたのに、弟子たちは目を覚ましていることができませんでした。このあと、主イエスは引き渡され、十字架に掛けられることになります。
*不甲斐ない弟子たちです。けれども、その不甲斐ない弟子たちと主イエスは最後まで共におり、寄り添うことを願われました。不甲斐ない弟子たちを主イエスは見捨てることはなさいませんでした。ここに慰めがあります。
*十字架で死を遂げるキリスト。そこには希望も慰めもないかに見えます。今の私たちの世界の現実がそうであるかも知れません。しかし、私たちは希望を捨てません。「土曜日のキリスト」という言葉があります。土曜日のキリストは墓の中で死んでいるキリストです。そこは真っ暗で、光はなく、絶望しかありません。けれども、土曜日のキリストは、翌日、復活の日が来ることを指差しています。私たちも同じです。今、光が見えなくても、その闇の向こうに朝がやって来ることを信じて歩みます。




posted by nakamuracho at 19:12| Comment(0) | 礼拝記録