2022年9月25日聖霊降臨節第17主日
<教会学校>
聖書 ルツ記1章11−19節
説教 「ルツの民と神」小友聡牧師
出席 幼小2、中高1、父母1、教会8
<主日礼拝>
聖書 第2コリント9章6−15節
讃美歌 13, 381, 270
交読詩編 48編
説教 「心に決めたとおりに」小友聡牧師
出席 30名(子供1)
*今週28日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*10月16日(日)礼拝後に小友聡牧師によるミニ講演会「コヘレトの言葉は面白い」をいたします。
<説教要旨>
*パウロはコリント教会の信徒たちにおしまず献金するように勧めを書いた。エルサレムの教会の聖徒
献たちのための献金である。献金では喜んで自発的に捧げることが求められる。各自、心に決めたとお
り、喜んで捧げ、与える人になれとパウロは勧める。
*なぜ献金に際して、パウロは「惜しまず与える」ことを求めたのか。これについて、8章9節が説明し
てくれる。キリストは私たちを罪の縄目から救い出すために、神の座を捨てて私たちと同じ人間になり、
私たちの罪をすべて引き受け、身代わりとなって十字架で死を遂げたのである。キリストが私たちのため
に命をも惜しまず与えて下さったから、私たちも喜んで惜しまず与えようではないかと言っているのであ
る。与えられた恵みに応えて生きよということだ。
*主イエスは「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた。受けるよりも与える人になる。これは、
キリスト教的な生き方を教えてくれる。献金は私たちの生き方に関わるのである。心に決めたとおりに、
喜んで捧げる人になろう。イスラエルには二つの湖がある。ガリラヤ湖と死海である。ガリラヤ湖からヨ
ルダン川が流れ、死海に注ぐ。ガリラヤ湖は絶えず与えるが、水は澄み、生き物が生息する。しかし、死
海は受けるだけ。この湖に生き物は住まず、死の海である。与える人は人を生かすだけでなく、自らも生き
生きと生きられるのである。与える人になろう。
2022年09月25日
2022年9月25日主日礼拝
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| 礼拝記録
2022年09月18日
2022年9月18日主日礼拝
2022年9月18日聖霊降臨節第16主日
<教会学校>
聖書 士師記16章23−31節
説教 「ナジル人怪力サムソン」佐々木兄
出席 幼小3、中高3、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章1−10節
讃美歌、 12, 354. 385
交読詩編 119編25−32節
説教 「ほかに福音はない」小友絹代牧師
出席 26名(子供0)
*本日、小友聡牧師は目白町教会の礼拝説教奉仕に出ています。
*今週24日(土)午後2:30〜4:00に讃美歌カフェがあります。
<教会学校>
聖書 士師記16章23−31節
説教 「ナジル人怪力サムソン」佐々木兄
出席 幼小3、中高3、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章1−10節
讃美歌、 12, 354. 385
交読詩編 119編25−32節
説教 「ほかに福音はない」小友絹代牧師
出席 26名(子供0)
*本日、小友聡牧師は目白町教会の礼拝説教奉仕に出ています。
*今週24日(土)午後2:30〜4:00に讃美歌カフェがあります。
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| 礼拝記録
2022年09月11日
2022年9月11日主日礼拝
2022年9月11日聖霊降臨節第15主日
<教会学校>
聖書 士師記7章1−7節
説教 「ギデオンの戦い」鹿村兄
出席 幼小3、中高2、父母2、教師10
<主日礼拝>
聖書 第1コリント13章1−13節
讃美歌 11, 321, 二編184
交読詩編 91編
説教 「最高の道」小友聡牧師
出席 35名(子供2)
*礼拝後に教会学校教師会をしました。
*今週14日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
<説教要旨>
*第1コリント13章は愛の章と呼ばれ、結婚式で必ず読まれる箇所である。けれども、最初に記される
のは、異言、信仰、施しの問題であり、愛がなければ無益だと語られる。この背景にはコリント教会の
事情がある。異言を語る人々は熱狂的に大声で語る。それは、愛がなければどらやシンバルを叩く音と
同じだとパウロは言うのである。
*しかし、預言はすたれ、異言は止み、知識もすたれるのだ。いつまでも残るのは信仰、希望、愛で
あり、そのうち最も大いなるものは愛であると言われる。最も大いなるものはなぜ信仰ではないのか。
なぜ希望ではないのか。コリント教会の問題も、原因は信仰ではなく、愛の欠如だということが示唆さ
れているかもしれない。それは今日の私たちの教会についても言えることである。
*なぜ信仰、希望、愛の中で愛が中心になるのだろうか。エミール・ブルンナーはこう説明する。信仰
はこれまで私たちが信じて来た生き方であり、信仰の根拠は過去にある。それに対し、希望は未来のこ
とで、私たちは将来に希望を置いて生きる。つまり、過去に土台を持つ信仰を大切にし、また未来に希
望を持って私たちは生きる。信仰も希望も大切で、それなしでは生きられない。しかし、最も大切なの
は愛である。愛は過去形ではなく、未来形でもない。愛は常に現在形である。この愛が信仰をも希望を
も包み込む。愛が信仰と希望をつなぐ。だから、愛が最も重要なのだ。この愛はキリストの愛、アガペ
ーの愛である。私たちはこの愛を与えられている。それゆえにこの愛に応えて生きるのである。
<教会学校>
聖書 士師記7章1−7節
説教 「ギデオンの戦い」鹿村兄
出席 幼小3、中高2、父母2、教師10
<主日礼拝>
聖書 第1コリント13章1−13節
讃美歌 11, 321, 二編184
交読詩編 91編
説教 「最高の道」小友聡牧師
出席 35名(子供2)
*礼拝後に教会学校教師会をしました。
*今週14日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
<説教要旨>
*第1コリント13章は愛の章と呼ばれ、結婚式で必ず読まれる箇所である。けれども、最初に記される
のは、異言、信仰、施しの問題であり、愛がなければ無益だと語られる。この背景にはコリント教会の
事情がある。異言を語る人々は熱狂的に大声で語る。それは、愛がなければどらやシンバルを叩く音と
同じだとパウロは言うのである。
*しかし、預言はすたれ、異言は止み、知識もすたれるのだ。いつまでも残るのは信仰、希望、愛で
あり、そのうち最も大いなるものは愛であると言われる。最も大いなるものはなぜ信仰ではないのか。
なぜ希望ではないのか。コリント教会の問題も、原因は信仰ではなく、愛の欠如だということが示唆さ
れているかもしれない。それは今日の私たちの教会についても言えることである。
*なぜ信仰、希望、愛の中で愛が中心になるのだろうか。エミール・ブルンナーはこう説明する。信仰
はこれまで私たちが信じて来た生き方であり、信仰の根拠は過去にある。それに対し、希望は未来のこ
とで、私たちは将来に希望を置いて生きる。つまり、過去に土台を持つ信仰を大切にし、また未来に希
望を持って私たちは生きる。信仰も希望も大切で、それなしでは生きられない。しかし、最も大切なの
は愛である。愛は過去形ではなく、未来形でもない。愛は常に現在形である。この愛が信仰をも希望を
も包み込む。愛が信仰と希望をつなぐ。だから、愛が最も重要なのだ。この愛はキリストの愛、アガペ
ーの愛である。私たちはこの愛を与えられている。それゆえにこの愛に応えて生きるのである。
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