2022年10月30日降誕前第8主日
<教会学校>
聖書 列王記上8章27−34節
説教 「ソロモンと神殿」奥野姉
出席 幼小3、中高2、父母2、教師9
<主日礼拝>
聖書 使徒言行録3章1−10節
讃美歌 15, 234A, 502
交読詩編 19編
説教 「イエスの名の現れるところ」新佐依子牧師
出席 38名(子1)
*本日は元丸亀教会牧師の新佐依子先生を説教者としてお招きしました。
*次週は聖餐式を執行します。
*11月13日(日)は児童祝福礼拝です。9時からの教会学校はありません。
<説教要旨>
*ペトロとヨハネが神殿も境内に入ろうとすると、そこに足の不自由な人が運ばれてきて、施しを
請うた。彼は神殿の門に置かれていたのである。置かれていたとは、物として扱われていたという
ことである。彼は生きる誇りすら奪われ、心も感覚を失っていたに違いない。自分にさえ心を閉ざ
していたのだ。障碍者として社会から排除されてきたのである。
*ペトロはその人を見つめた。そのまなざしは彼を人として見るまなざしであった。「イエス・キリ
ストの名によって立ち上がり歩きなさい」というペトロの言葉で彼は立ち上がり、躍り上がって歩き
出し、神を賛美した。こういう奇跡が起こった。
*ペトロの言葉がその奇跡を引き起こした。その言葉は神の言葉である。単なる言葉ではない。その言
葉は心に届く言葉である。イエスキリストが世に来て下さり、体を持って私たちに示してくださったと
いうことである。言葉は人との関わり中で、体を持った触れ合いによって伝わるも。その言葉によっ
て、足の不自由な障碍者は立ち上がったのである。私たちもこの言葉によって生きる。このような言葉
を語る人になろう。
、
2022年10月30日
2022年19月30日主日礼拝
posted by nakamuracho at 17:09| Comment(0)
| 礼拝記録
2022年10月23日
2022年10月23日主日礼拝
2022年10月23日降誕前第9主日
<教会学校>
聖書 策得る気下7章8−17節
説教 「ダビデの契約」関姉
出席 幼小3、中高1、父母2、教師8
<主日礼拝>
聖書 ヨブ記38章1−18節
讃美歌 17, 75, U144
交読詩編 148編
説教 「神の答え」小友絹代牧師
出席 30名(子供)
*今週26日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*次週は特別礼拝で、新佐依子先生(元丸亀教会牧師)が説教をいたします。
*小友聡牧師は本日、七戸教会の主日礼拝説教のため出張しています。
*教会報108号が発行されました。
<説教要旨>
*ヨブは義人として神の前を歩みました。そのヨブに次から次に耐え難い災いが降り、ヨブは苦しみました。
その災いがなぜなのか分からなかったからです。友人たちもヨブが罪を犯したからだと理解し、ヨブを厳しく責めました。しかし、ヨブはあくまで自らの潔白を主張したのです。
*このヨブについに神様は現れ、ヨブに滾々と語りました。今日の38章はその神様の言葉です。神様はヨブの
「なぜ」には直接答えておられません。少なくとも、聖書の言葉からそれを読み取ることができません。むしろ「ヨブよ、私に答えて見よ」と神様は言われます。それが神様からの答えだったと思われます。
*神様の答えは私たちには理解できないことがあるのではないでしょうか。神様は私たちが思い描くような仕方ではお答えにならないのです。それでも、神様がヨブ記語る言葉には深い意味があります。神様の御計画は私たちの思いをはるかに超えているのです。その神様の御計画を信じて私たちは歩みます。
<教会学校>
聖書 策得る気下7章8−17節
説教 「ダビデの契約」関姉
出席 幼小3、中高1、父母2、教師8
<主日礼拝>
聖書 ヨブ記38章1−18節
讃美歌 17, 75, U144
交読詩編 148編
説教 「神の答え」小友絹代牧師
出席 30名(子供)
*今週26日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*次週は特別礼拝で、新佐依子先生(元丸亀教会牧師)が説教をいたします。
*小友聡牧師は本日、七戸教会の主日礼拝説教のため出張しています。
*教会報108号が発行されました。
<説教要旨>
*ヨブは義人として神の前を歩みました。そのヨブに次から次に耐え難い災いが降り、ヨブは苦しみました。
その災いがなぜなのか分からなかったからです。友人たちもヨブが罪を犯したからだと理解し、ヨブを厳しく責めました。しかし、ヨブはあくまで自らの潔白を主張したのです。
*このヨブについに神様は現れ、ヨブに滾々と語りました。今日の38章はその神様の言葉です。神様はヨブの
「なぜ」には直接答えておられません。少なくとも、聖書の言葉からそれを読み取ることができません。むしろ「ヨブよ、私に答えて見よ」と神様は言われます。それが神様からの答えだったと思われます。
*神様の答えは私たちには理解できないことがあるのではないでしょうか。神様は私たちが思い描くような仕方ではお答えにならないのです。それでも、神様がヨブ記語る言葉には深い意味があります。神様の御計画は私たちの思いをはるかに超えているのです。その神様の御計画を信じて私たちは歩みます。
posted by nakamuracho at 23:23| Comment(0)
| 礼拝記録
2022年10月16日
2022年10月16日主日礼拝
2022年10月16日聖霊降臨節第20主日
<教会学校>
聖書 サムエル記上16章4−13節
説教 「ダビデの選び」佐々木兄
出席 幼小2、中高1、父母0、教師9
<主日礼拝>
聖書 ヨハネの黙示録7章2−12節
讃美歌 16, 82, 355
交読詩編 84編
説教 「刻印を押されて」
出席 43名(子供1)
*礼拝後に、小友聡牧師によるミニ講演会「コヘレトの言葉は面白い」を開催しました。約40名。
*22日(土)午後2:30より讃美歌カフェがあります。
*教会報108号ができました。
<説教要旨>
*ヨハネ黙示録7章には、ヨハネが見た幻が記されています。東から天使が神の刻印を携えて来て、
4人の天使に叫ぶのです。「私たちが神の僕の額に刻印を押すまでは、大地は損なわれない」と。
この刻印を押された人は14万4千人。彼らは白い衣を着ていました。そして玉座と小羊の前に立ち、
「救いは、神よ小羊にある」と叫びました。また天使たちも玉座の前で神を礼拝しました。
*象徴的ですが、額に刻印を押された人とは洗礼を受けた人で、彼らは新しいイスラエル、つまり
教会の信徒たちを指しています。白い衣とは洗礼式を示唆しています。この人々は、紀元1世紀末、
ローマ帝国下でキリストを信じて生きる人々です。迫害を受け、苦難を強いられていた人々です。
彼らに天において安らぎと永遠の憩いが与えられるという幻なのです。
*14万4千人とは、ローマ帝国の全人口約2千万人に対して1%未満の少数者。ローマ皇帝を崇拝し
ないために嫌悪された人々です。しかし、今どんな苦難があっても、キリストを信じて歩みなさい。
洗礼を受けたことを恥じてはならない。あなたがたが苦難の中にいる時も、キリストは共におられ
る。だから、礼拝を大切にし、希望をなくさずに生きなさいと勧められているのです。
*この慰めは今、私たちにも語られています。私たちキリスト者も日本社会で小数者です。けれど
も、洗礼を受けたことを恥とせず、礼拝を大切にし、キリストを証しして生きるのです。受けるよ
りは与える方が幸いと主イエスは言われました。利己的ではなく、他者のために生きる。キリスト
に喜んでもらえるような生き方をし、死に至るまで忠実であることを志したいと思います。聖書は
私たちにこのような励ましを語っているのです。、
<教会学校>
聖書 サムエル記上16章4−13節
説教 「ダビデの選び」佐々木兄
出席 幼小2、中高1、父母0、教師9
<主日礼拝>
聖書 ヨハネの黙示録7章2−12節
讃美歌 16, 82, 355
交読詩編 84編
説教 「刻印を押されて」
出席 43名(子供1)
*礼拝後に、小友聡牧師によるミニ講演会「コヘレトの言葉は面白い」を開催しました。約40名。
*22日(土)午後2:30より讃美歌カフェがあります。
*教会報108号ができました。
<説教要旨>
*ヨハネ黙示録7章には、ヨハネが見た幻が記されています。東から天使が神の刻印を携えて来て、
4人の天使に叫ぶのです。「私たちが神の僕の額に刻印を押すまでは、大地は損なわれない」と。
この刻印を押された人は14万4千人。彼らは白い衣を着ていました。そして玉座と小羊の前に立ち、
「救いは、神よ小羊にある」と叫びました。また天使たちも玉座の前で神を礼拝しました。
*象徴的ですが、額に刻印を押された人とは洗礼を受けた人で、彼らは新しいイスラエル、つまり
教会の信徒たちを指しています。白い衣とは洗礼式を示唆しています。この人々は、紀元1世紀末、
ローマ帝国下でキリストを信じて生きる人々です。迫害を受け、苦難を強いられていた人々です。
彼らに天において安らぎと永遠の憩いが与えられるという幻なのです。
*14万4千人とは、ローマ帝国の全人口約2千万人に対して1%未満の少数者。ローマ皇帝を崇拝し
ないために嫌悪された人々です。しかし、今どんな苦難があっても、キリストを信じて歩みなさい。
洗礼を受けたことを恥じてはならない。あなたがたが苦難の中にいる時も、キリストは共におられ
る。だから、礼拝を大切にし、希望をなくさずに生きなさいと勧められているのです。
*この慰めは今、私たちにも語られています。私たちキリスト者も日本社会で小数者です。けれど
も、洗礼を受けたことを恥とせず、礼拝を大切にし、キリストを証しして生きるのです。受けるよ
りは与える方が幸いと主イエスは言われました。利己的ではなく、他者のために生きる。キリスト
に喜んでもらえるような生き方をし、死に至るまで忠実であることを志したいと思います。聖書は
私たちにこのような励ましを語っているのです。、
posted by nakamuracho at 15:47| Comment(0)
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