2023年1月1日降誕節第2主日(朝10:30〜11:30)
<教会学校>
本日はお休みします。
<主日礼拝>
聖書 ルカによる福音書2章21−40節
讃美歌 二編1、411、338
交読詩編 1編
説教 「真実の礼拝」小友聡牧師
出席 22名(子供0)
*役員会は次週にいたします。
*教会学校で作成したカレンダーを200円で販売します。
<説教要旨>
*ヨセフとマリアの夫婦は幼子主イエスを抱いてエルサレム神殿に出かけた。鳩2羽をいけにえに捧げて、
幼子を聖別するためである。そこにシメオンという人がいて、主イエスを抱き、このお方が救い主と確信
し、喜びに溢れた。アンナという女預言者も主イエスを見て、救い主と信じ、このお方を皆に知らせた。
*この日、初子を捧げる神殿での礼拝に、偶然にもシメオンとアンナが来ていて、主イエスに出会った。
彼らは礼拝において、救い主キリストに出会ったのである。この出会いがどんなに大きな喜びであったか。
シメオンはもう自分はこれで死んでもいいとさえ思った。キリストを腕に抱き、そのぬくもりが両手に伝
わって、喜びに満たされた。そもそもキリストを礼拝するとは、そういうことではないだろうか。
*今日の御言葉は、キリストに出会うために礼拝がどんなに大切かということを教えてくれる。年頭にあたり、礼拝の大切さを思う。キリスト教は日曜日に教会に集まる宗教である。クリスマスの夜、羊飼いが天使
の御告げを聞いて、ベツレヘムに行き、キリストに出会った。これは、我々が主の日に教会に集まり、キリ
ストを礼拝することの原点であったと言える。
*今日はクリスマス直後の日曜日、思い出すのは教会員の中嶋さんのこと。昭和19年のクリスマス直前に、
14歳の娘さんを失った。そのお嬢さんはキリストを信じ、安らかに安心して息を引き取った。その最後を看
取った主治医、中嶋さんは「この子の信じたキリスト教こそ本物だ」と、一念発起し、クリスマス直後の日
曜日から教会に行き、礼拝を守った。空襲が続く中も礼拝を守り、昭和20年春に洗礼を受けた。中嶋さんは
91歳で召されるまで、このことを自らの信仰の証として歩んだ。礼拝を守ること、それはキリスト者の人生
そのものである。我々も、今日から礼拝を守り続けよう。
2022年12月31日
2023年1月1日主日礼拝
posted by nakamuracho at 18:09| Comment(0)
| 礼拝記録
2022年12月24日
2022年12月25日クリスマス礼拝
2022年12月25日降誕節第1主日クリスマス礼拝
<教会学校>
聖書 ルカ福音書2章8−20節
説教 「羊飼いたちの礼拝」小友聡牧師
出席 幼小3、中高5、父母2、教師8
*1月1日(日)の教会学校礼拝は休みます。
<主日礼拝:クリスマス礼拝>
聖書 ヨハネ福音書1章1−14節
讃美歌 100、107、103、二編128
交読文 詩編98編
説教 「キリストの降誕」小友絹代牧師
聖餐式 陪餐37名
出席 45名(子供T)
*クリスマス礼拝では聖餐式が執行されました。祝会はいたしませんが、
教会からお菓子のプレゼントを用意しました。
*24日(土)燭火礼拝はに33名(子供5)が出席しました。
*今週28日(水)午前10:30から聖書研究祈祷会があります。
<説教要旨>
*ヨハネ福音書1章にはクリスマス物語はないが、独特な言葉でそれは表現されている。14節「言は肉と
なって、私たちの間に宿った」がそうである。言葉が命の源ということである。
*なぜキリストは肉となったのか。言が肉となったという「肉」とは、弱く儚い存在だということ。
キリストはそのような肉となられたのである。それを第二コリ8:9が説明してくれる。「主は富んでおら
れたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かに
なるためでした。」
*救い主が来られたのに、それを受け入れず、救い主がいなくても自分で生きられると人は考える。この
ような世を聖書は闇と言う。光はそのような罪を顕わにするのである。しかし、それだけではない。光は
平和をもたらす。まことの光は一瞬ではなく、私たちの中にとどまってくださる。今日の御言葉はまこと
に3章16節を指し示している。「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。御子を信じる者が
一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」闇の中にキリストは来られた。ひそやかに。このキリ
ストは、私たちが信仰によってのみ見出すことができるのである。
<教会学校>
聖書 ルカ福音書2章8−20節
説教 「羊飼いたちの礼拝」小友聡牧師
出席 幼小3、中高5、父母2、教師8
*1月1日(日)の教会学校礼拝は休みます。
<主日礼拝:クリスマス礼拝>
聖書 ヨハネ福音書1章1−14節
讃美歌 100、107、103、二編128
交読文 詩編98編
説教 「キリストの降誕」小友絹代牧師
聖餐式 陪餐37名
出席 45名(子供T)
*クリスマス礼拝では聖餐式が執行されました。祝会はいたしませんが、
教会からお菓子のプレゼントを用意しました。
*24日(土)燭火礼拝はに33名(子供5)が出席しました。
*今週28日(水)午前10:30から聖書研究祈祷会があります。
<説教要旨>
*ヨハネ福音書1章にはクリスマス物語はないが、独特な言葉でそれは表現されている。14節「言は肉と
なって、私たちの間に宿った」がそうである。言葉が命の源ということである。
*なぜキリストは肉となったのか。言が肉となったという「肉」とは、弱く儚い存在だということ。
キリストはそのような肉となられたのである。それを第二コリ8:9が説明してくれる。「主は富んでおら
れたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かに
なるためでした。」
*救い主が来られたのに、それを受け入れず、救い主がいなくても自分で生きられると人は考える。この
ような世を聖書は闇と言う。光はそのような罪を顕わにするのである。しかし、それだけではない。光は
平和をもたらす。まことの光は一瞬ではなく、私たちの中にとどまってくださる。今日の御言葉はまこと
に3章16節を指し示している。「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。御子を信じる者が
一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」闇の中にキリストは来られた。ひそやかに。このキリ
ストは、私たちが信仰によってのみ見出すことができるのである。
posted by nakamuracho at 20:41| Comment(0)
| 礼拝記録
2022年12月18日
2022年12月18日主日礼拝
2022年12月18日待降節第4主日
<教会学校>
聖書 ルカ福音書2章1−7節
説教 「イエスのご降誕」佐々木兄
出席 幼小3、中高1、父母2、教師9
<主日礼拝>
聖書 イザヤ書11章1−10節
讃美歌 10,96,121
交読詩編 99編
説教 「エッサイの株から」小友聡牧師
出席 36名(子供1)
*今週24日(土)午後6時から、燭火礼拝があります。
*次週はクリスマス礼拝です。聖餐式をいたします。
<説教要旨>
*イザヤは「エッサイの株から芽が萌え出て、若枝になる」と預言した。「エッサイの株」とは何か。
エッサイとはイスラエルの王国を興したダビデの父である。ダビデの血筋を意味する。それでは、「株」
とは何か。株とは切り株である。一度切り倒された大木から新しい芽が出ることである。これはイスラ
エルの歴史と関係する。ユダ王国は紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされ、以後、復興されること
はなかった。けれども、イザヤはその株から芽が出ると言う。それはダビデの血筋からやがてメシアが誕
生するという預言である。
*このイザヤの預言はこの11章だけではない。9章には、「一人のみどりごが私たちのために生まれた。・
・・その名は「力ある神」と呼ばれ、・・ダビデの王座とその王国はとこしえに」という預言がある。そ
れだけではない。7章には、「見よ、おとめが身籠って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と
いう預言がある。これらのイザヤの預言は一つに繋がっている。エッサイの子孫として地上に到来する幼
な子は「力ある神」であり、王として支配するのである。
*このイザヤの預言から、救い主イエス・キリストの姿に私たちは出会う。この預言がクリスマスを予告
していることを私たちは読み取る。神が人となってこの地上に到来したのである。罪人を招き、病人を癒
し、苦しむ者に寄り添い、死者をよみがえらせる。低き者、弱き者を招いて、最後は自ら十字架を引き受
け、自らを犠牲に捧げて、すべて人々の罪の赦しを成し遂げた。それがイエス・キリストと言うお方であ
る。このお方の誕生がここに約束されているのである。
*「エッサイの株」とは象徴的である。ダビデではなく、エッサイと言う名が使われる。エッサイの父は
オベドである。オベドを産んだのはルツである。モアブ人の女性ルツ。除外されたよそ者である。けれども、そのように見過ごされた人にも神は寄り添い、その人を通して救いの御業をなさる。ルツのような異邦人が
エッサイの血筋につながる。異邦人の救いの物語が「エッサイの株」に映し出されている。選ばれない、見
過ごしにされた人たちをキリストは招き、私たちの救い主となってくださるのである。
<教会学校>
聖書 ルカ福音書2章1−7節
説教 「イエスのご降誕」佐々木兄
出席 幼小3、中高1、父母2、教師9
<主日礼拝>
聖書 イザヤ書11章1−10節
讃美歌 10,96,121
交読詩編 99編
説教 「エッサイの株から」小友聡牧師
出席 36名(子供1)
*今週24日(土)午後6時から、燭火礼拝があります。
*次週はクリスマス礼拝です。聖餐式をいたします。
<説教要旨>
*イザヤは「エッサイの株から芽が萌え出て、若枝になる」と預言した。「エッサイの株」とは何か。
エッサイとはイスラエルの王国を興したダビデの父である。ダビデの血筋を意味する。それでは、「株」
とは何か。株とは切り株である。一度切り倒された大木から新しい芽が出ることである。これはイスラ
エルの歴史と関係する。ユダ王国は紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされ、以後、復興されること
はなかった。けれども、イザヤはその株から芽が出ると言う。それはダビデの血筋からやがてメシアが誕
生するという預言である。
*このイザヤの預言はこの11章だけではない。9章には、「一人のみどりごが私たちのために生まれた。・
・・その名は「力ある神」と呼ばれ、・・ダビデの王座とその王国はとこしえに」という預言がある。そ
れだけではない。7章には、「見よ、おとめが身籠って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と
いう預言がある。これらのイザヤの預言は一つに繋がっている。エッサイの子孫として地上に到来する幼
な子は「力ある神」であり、王として支配するのである。
*このイザヤの預言から、救い主イエス・キリストの姿に私たちは出会う。この預言がクリスマスを予告
していることを私たちは読み取る。神が人となってこの地上に到来したのである。罪人を招き、病人を癒
し、苦しむ者に寄り添い、死者をよみがえらせる。低き者、弱き者を招いて、最後は自ら十字架を引き受
け、自らを犠牲に捧げて、すべて人々の罪の赦しを成し遂げた。それがイエス・キリストと言うお方であ
る。このお方の誕生がここに約束されているのである。
*「エッサイの株」とは象徴的である。ダビデではなく、エッサイと言う名が使われる。エッサイの父は
オベドである。オベドを産んだのはルツである。モアブ人の女性ルツ。除外されたよそ者である。けれども、そのように見過ごされた人にも神は寄り添い、その人を通して救いの御業をなさる。ルツのような異邦人が
エッサイの血筋につながる。異邦人の救いの物語が「エッサイの株」に映し出されている。選ばれない、見
過ごしにされた人たちをキリストは招き、私たちの救い主となってくださるのである。
posted by nakamuracho at 14:56| Comment(0)
| 礼拝記録