2023年2月26日受難節第1主日
<教会学校>
聖書 ダニエル書6章19−28節
説教 「ダニエルと獅子の洞窟」吉田姉
出席 幼小3、中高1、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書4章1−13節
讃美歌 12.385, 519
交読詩編 85編
説教 「誘惑、迷い、焦り」小友聡牧師
出席 40名(子供1)
*教会報109号ができました。
*次週は、ルカ福音書11章14−23節「悪霊を追い出す」、説教者は小友絹代牧師。
<説教要旨>
*主イエスは伝道開始の前に、荒れ野に導かれ、悪魔の試みを受けた。40日間食事をとらなかった、
主イエスに、悪魔は「神の子なら、石に命じてパンにしたらどうか」と囁き、また、「私を拝むなら、
この国々の一切の権力と栄華を与えよう」と誘惑した。最後は「神殿の屋根から飛び降りてみよ。天
使が助けに来てくれる」という誘惑であった。主イエスはいずれも聖書の言葉を用いて、誘惑を退け
たのである。
*主イエスは誘惑を退けたが、私たちも様々な誘惑を経験する。今、教会では聖書通読をしているが、
サムエル記上でサウルの物語が印象深い。サウルは誘惑によって破滅に至った。王に選ばれたが、王
になりきれず、迷いと焦りと嫉妬によって狂気に走った。ダビデに地位を奪われたくないと、地位に
しがみつき、破滅した。悪魔に魂を奪われたと言うしかない。私たちも同じではないか。人間的な弱
さと脆さを持っている。
*しかし、主イエスは私たちのために苦難の道を歩まれた。主イエスは私たちの罪を引き受け、最後
は十字架の死を遂げることによって、私たちを贖ってくださった。そのことを忘れてはならない。私
たちがどうしようもない罪人なのに、その罪がまったくないかのように主イエスが肩代わりしてくだ
さった。この与えられた絶対的な恵みに私たちは気づかされる。
*主イエスは私たちに「主の祈り」を祈るように教えてくださった。「試みに遭わせず、悪より救い
出したまえ」は、私たちがいかに誘惑に弱く、またその誘惑にたえず晒されることを教えてくれる。
主の祈りは主イエスが弱さを抱え持つ私たちに寄り添うお方だということを教えているのだ。主の祈
りは、「大丈夫だ、私が共にいる」という主イエスの私たちに対するメッセージである。
2023年02月26日
2023年2月26日主日礼拝
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| 礼拝記録
2023年02月19日
2023年2月19日主日礼拝
2023年2月19日降誕節第9主日
<教会学校>
聖書 エゼキエル書37章21−28節
説教 「エゼキエルの預言」佐々木兄
出席 幼小3、中高1、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書9章10−17節
讃美歌、 11, 354, U56
交読詩編 46編
説教 「奇跡の食事」小友絹代牧師
出席 35名(子供0)
*今週22日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*今週25日(土)午後:30-4:00に讃美歌カフェがあります。
*次週礼拝は、ルカ4章1−13節「誘惑、迷い、焦り」、説教者は小友聡牧師。
<教会学校>
聖書 エゼキエル書37章21−28節
説教 「エゼキエルの預言」佐々木兄
出席 幼小3、中高1、父母1、教師8
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書9章10−17節
讃美歌、 11, 354, U56
交読詩編 46編
説教 「奇跡の食事」小友絹代牧師
出席 35名(子供0)
*今週22日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*今週25日(土)午後:30-4:00に讃美歌カフェがあります。
*次週礼拝は、ルカ4章1−13節「誘惑、迷い、焦り」、説教者は小友聡牧師。
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| 礼拝記録
2023年02月12日
2023年2月12日主日礼拝
2023年2月12日降誕節第8主日
<教会学校>
聖書 エレミヤ書31章31−34節
説教 「エレミヤの新しい契約の預言」奥野姉
出席 幼小3、中高2、父母2、教師9
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書5章12−26節
讃美歌 10,238, 399
交読詩編 61編
説教 「命の輝き」小友聡牧師
出席 40名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
<説教要旨>
*主イエスは二人の病人を癒した。一人は規定の病を患う人、もう一人は体が麻痺した人。この二つの
物語は信仰による癒しとして単純に読むことはできない。なぜなら、後半の物語は、病人の信仰による
のではなく、彼を運んだ男たちの信仰に拠るからである。しかも、運ばれて来た病人に主イエスは「あ
なたの罪は癒された」とお語りになった。
*罪の赦しが癒しに先立っている。これはどういうことか。聖書にははっきり書かれていないが、この
体が麻痺した人について、主イエスは病気の問題よりも罪の重さを見ておられた。彼の魂の癒しがまず
必要であったのだ。
*コンゴ共和国で医療活動をしているデニ・ムクウェゲさんは、鉱山の利権をめぐる武力紛争で多くの
女性たちが酷い性的暴力を受けていることを世界に訴えた。彼女たちは医療で体を癒すことができる。
しかし、心が癒されなければ、その後の人生を生きることができない。医療は身体を治せるが、心を癒
すことはできない。その心の癒しこそが重要だとムクウェゲさんは語った。
*これは聖書の御言葉と重なる。この体が麻痺した人は、体の癒しより魂の癒しが必要であった。だか
ら、主イエスは罪の赦しを宣言したのだ。それはキリストによってあなたの罪は赦されたという宣言で
ある。これによって、彼は新たな生を与えられた。それが、彼に起き上がって床を担いで歩む生き方を
もたらした。キリストによって罪赦された者として生きる。この生き方は、たとえ病のままであっても、
それを担って生きる幸いを与えてくれるのである。
<教会学校>
聖書 エレミヤ書31章31−34節
説教 「エレミヤの新しい契約の預言」奥野姉
出席 幼小3、中高2、父母2、教師9
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書5章12−26節
讃美歌 10,238, 399
交読詩編 61編
説教 「命の輝き」小友聡牧師
出席 40名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
<説教要旨>
*主イエスは二人の病人を癒した。一人は規定の病を患う人、もう一人は体が麻痺した人。この二つの
物語は信仰による癒しとして単純に読むことはできない。なぜなら、後半の物語は、病人の信仰による
のではなく、彼を運んだ男たちの信仰に拠るからである。しかも、運ばれて来た病人に主イエスは「あ
なたの罪は癒された」とお語りになった。
*罪の赦しが癒しに先立っている。これはどういうことか。聖書にははっきり書かれていないが、この
体が麻痺した人について、主イエスは病気の問題よりも罪の重さを見ておられた。彼の魂の癒しがまず
必要であったのだ。
*コンゴ共和国で医療活動をしているデニ・ムクウェゲさんは、鉱山の利権をめぐる武力紛争で多くの
女性たちが酷い性的暴力を受けていることを世界に訴えた。彼女たちは医療で体を癒すことができる。
しかし、心が癒されなければ、その後の人生を生きることができない。医療は身体を治せるが、心を癒
すことはできない。その心の癒しこそが重要だとムクウェゲさんは語った。
*これは聖書の御言葉と重なる。この体が麻痺した人は、体の癒しより魂の癒しが必要であった。だか
ら、主イエスは罪の赦しを宣言したのだ。それはキリストによってあなたの罪は赦されたという宣言で
ある。これによって、彼は新たな生を与えられた。それが、彼に起き上がって床を担いで歩む生き方を
もたらした。キリストによって罪赦された者として生きる。この生き方は、たとえ病のままであっても、
それを担って生きる幸いを与えてくれるのである。
posted by nakamuracho at 13:25| Comment(0)
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