2023年3月26日受難節第5主日
<教会学校>
聖書 ルカ福音書22章14−23節
説教 「キリストの血による新しい契約」土肥姉
出席 幼小2、中高1、父母1、教師7
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書20章9−19節
讃美歌 15、140、二編184
交読詩編 30編
説教 「私の愛する息子」小友聡牧師
出席 34名(子供1)
*礼拝後に教会大掃除をしました。
*5月21日(日)に教会ミニバザーを開催します。そのための献品を募ります。
*教会学校の教師を募集しています。
<説教要旨>
*ぶどう園と農夫のたとえは、イエス・キリストがどのようなお方かを明らかにする。主人は創造主なる神であり、農夫は選ばれたイスラエルの民である。彼らは貸し与えられたぶどう園を自分のものにしようとした。
主人は収穫を納めさせるために僕を次々に遣わした。この僕たちは預言者たちである。預言者はイスラエルの民に神に立ち帰ることを語ったが、彼らはまったく聞く耳を持たなかった。これがイスラエルの歴史である。
*その歴史の終わりに、神は独り子を遣わした。愛する息子を。しかし、この独り子なる神は預言者と同じように受け入れられず、苦難の道を歩み、ぶどう園の外に放り出され、殺されるのである。この主人に遣わされた愛する息子は主イエス・キリストを指差している。
*この喩えは大変象徴的で、主イエスがどういうお方であり、これからどのような運命をたどるかが予告されている。この喩えを聞いた律法学者と祭司長たちは自分たちに当てつけて語られていると知り、受け入れなかった。彼らは救い主と出会う機会を失った。ところで、喩え話を聞いて、彼らのようにならなかった人物がいる。ダビデである。ダビデについて、サムエル記下12章の預言者ナタンによる喩え話が興味深い。
*ある貧しい羊飼いが大事にしていたたった一匹の小羊を、裕福な羊飼いが奪い取り、友人をもてなす料理に用いた。この喩えを聞いてダビデは「そういうことをした男は赦しておけない」と応えた。ところがナタンはダビデに言う。「それはあなたのことです」と。貧しい羊飼いから羊を奪った金持ちとはダビデのことであった。ダビデは家臣ウリヤの妻を奪い取り、それを隠すためにウリヤを戦場で討ち死にさせたのだ。ダビデは権力を濫用し、赦されない不正を行っていた。ダビデは自らの罪を知らされた。自らの罪を知り、深く悔い、苦しみを引き受けたときに、ダビデは主によって赦しに招かれ、再生することができた。
*今日の喩えで、私の愛する息子が遣わされたと語られる。救い主イエスキリストが十字架で私たちの罪を贖い、救いの道を開いてくださった。神は御子を犠牲にすることによって私たちの罪を赦してくださった。その救いのメッセージが目の前に届いているのに、律法学者や祭司長たちはそれを拒んだ。しかし、今日、私たちは皆、キリストの救いに招かれている。主イエスは神の独り子として遣わされ、私たちの罪を贖ってくださった。その愛に応えて私たちは歩むのである。
2023年03月26日
2023年3月26日主日礼拝
posted by nakamuracho at 13:24| Comment(0)
| 礼拝記録
2023年03月19日
2023年3月19日主日礼拝
2023年3月19日受難節第4主日
<主日礼拝>
聖書 マラキ書3章19−24節
讃美歌、 U188, 453、461
交読詩編 23編
説教 「神さまが来られる」小友絹代牧師
出席 44名(CS生徒7名)
*本日は教会学校との合同礼拝で、7名の生徒の皆さんが出席しました。4名に精勤賞を差し上げました。
*礼拝後にバザー委員会がありました(6名)。
*今週、22日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*また今週、25日(土)午後2:30-4:00に讃美歌カフェがあります。
*次週礼拝後に教会大掃除があります。
*次週の礼拝は、ルカ福音書20章9−19節「私の愛する息子」、説教者は小友聡牧師です。
<説教要旨>
*預言者マラキの時代は、紀元前5世紀でした。それは、バビロン捕囚後の時代です。このバビロン捕囚は、
現在にもあります。ウクライナの人々がロシアに捕囚されています。権力のゆえに、多くの人々が苦しみを
経験します。想像力が必要です。マラキの時代は、ペルシア帝国下で、捕囚から解放され、神殿も再建されましたが、本質的には復興ではありませんでした。
*神様を侮るような人々の現実がありました。しかし、神様が来るときに、その罪は明らかにされます。裁きの日です。私たちはその裁きには耐えられません。マラキは、人々を神様に立ち帰らせるために遣わされました。終わりの日にエリヤが来ると。
*そのエリヤとは洗礼者ヨハネのことでした。マラキは主イエスの到来を予告したのです。終わりの日の裁き
を引き受けたのは主イエスキリストでした。裁きは主イエスの十字架によって成就したのです。けれども、それは私たちに救いをもたらすためでした。20節の「裁きの日に偽の太陽が昇る」とはそれを示しています。
*主イエスが十字架で死を遂げられた聖金曜日は、神の子がすべての裁きを引き受けて下さったことです。それはまさしく私たちの救いの出来事として起こったのです。「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。」(第1ヨハネ3章16節)それゆえに、この神の愛に応えて、私たちは生きるのです。
<主日礼拝>
聖書 マラキ書3章19−24節
讃美歌、 U188, 453、461
交読詩編 23編
説教 「神さまが来られる」小友絹代牧師
出席 44名(CS生徒7名)
*本日は教会学校との合同礼拝で、7名の生徒の皆さんが出席しました。4名に精勤賞を差し上げました。
*礼拝後にバザー委員会がありました(6名)。
*今週、22日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*また今週、25日(土)午後2:30-4:00に讃美歌カフェがあります。
*次週礼拝後に教会大掃除があります。
*次週の礼拝は、ルカ福音書20章9−19節「私の愛する息子」、説教者は小友聡牧師です。
<説教要旨>
*預言者マラキの時代は、紀元前5世紀でした。それは、バビロン捕囚後の時代です。このバビロン捕囚は、
現在にもあります。ウクライナの人々がロシアに捕囚されています。権力のゆえに、多くの人々が苦しみを
経験します。想像力が必要です。マラキの時代は、ペルシア帝国下で、捕囚から解放され、神殿も再建されましたが、本質的には復興ではありませんでした。
*神様を侮るような人々の現実がありました。しかし、神様が来るときに、その罪は明らかにされます。裁きの日です。私たちはその裁きには耐えられません。マラキは、人々を神様に立ち帰らせるために遣わされました。終わりの日にエリヤが来ると。
*そのエリヤとは洗礼者ヨハネのことでした。マラキは主イエスの到来を予告したのです。終わりの日の裁き
を引き受けたのは主イエスキリストでした。裁きは主イエスの十字架によって成就したのです。けれども、それは私たちに救いをもたらすためでした。20節の「裁きの日に偽の太陽が昇る」とはそれを示しています。
*主イエスが十字架で死を遂げられた聖金曜日は、神の子がすべての裁きを引き受けて下さったことです。それはまさしく私たちの救いの出来事として起こったのです。「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。」(第1ヨハネ3章16節)それゆえに、この神の愛に応えて、私たちは生きるのです。
posted by nakamuracho at 14:29| Comment(0)
| 礼拝記録
2023年03月12日
2023年3月12日主日礼拝
2023年3月12日受難節第3主日
<教会学校>
聖書 ヨナ書3章1−10節
説教 「ヨナとニネベの悔い改め」藤川姉
出席 幼小3、中高2、父母2、教師9
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書9章18−27節
讃美歌 14, 355, 270
交読詩編 130編
説教 「神の国を見る」小友聡牧師
出席 38名(子供2)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
*次週はCSとの合同礼拝です。マラキ書3章19−24節、説教「神さまが来られる」小友絹代牧師。
<説教要旨>
*主イエスは弟子たちに「人々は私を誰と言うか」と尋ね、そのあと「あなた方は私を誰と言うか」と
いうと、ペトロは「神のメシアです」と答えた。ペトロの信仰告白であるが、それは主イエスをきちん
と理解したからではない。
*その弟子たちに主イエスは御自分の受難を予告し、さらに「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日
々、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われた。主イエスをきちんと理解できていないにも
かかわらずです。キリストに従うことは、喜びや安心や幸いを得るだけではない。むしろ苦しみをが含
まれる。覚悟が求められるのである。それは後になってからわかるのだ。
*この言葉はマタイ、マルコにもあるが、ルカ福音書には、「日々」が含まれる。それは、日々の生活、
日常のにおいて、自分を捨て、キリストに従うことが重要だということである。そして、主イエスは最
後に「神の国を見るまでは死なない人がいる」と奇妙なことを言われた。神の国を見るとはどういうこ
とか。ここで主は何を言わんとしたのか。
*ルカ福音書では神の国はすでに来ているのである。神の国とはキリスト御自身を意味する。弟子たち
はキリストと出会っている。しかし、再び主とお会いする終わりの時までどう生きるかを主は教えたの
である。それはキリストに従うことであり、自分を捨て、日々、自分の十字架を負うことである。日々、
そのように生きる。終わりまでそのように生きよ。主イエスは弟子たちに、また私たちにそう言われた
のである。
<教会学校>
聖書 ヨナ書3章1−10節
説教 「ヨナとニネベの悔い改め」藤川姉
出席 幼小3、中高2、父母2、教師9
<主日礼拝>
聖書 ルカ福音書9章18−27節
讃美歌 14, 355, 270
交読詩編 130編
説教 「神の国を見る」小友聡牧師
出席 38名(子供2)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
*次週はCSとの合同礼拝です。マラキ書3章19−24節、説教「神さまが来られる」小友絹代牧師。
<説教要旨>
*主イエスは弟子たちに「人々は私を誰と言うか」と尋ね、そのあと「あなた方は私を誰と言うか」と
いうと、ペトロは「神のメシアです」と答えた。ペトロの信仰告白であるが、それは主イエスをきちん
と理解したからではない。
*その弟子たちに主イエスは御自分の受難を予告し、さらに「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日
々、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われた。主イエスをきちんと理解できていないにも
かかわらずです。キリストに従うことは、喜びや安心や幸いを得るだけではない。むしろ苦しみをが含
まれる。覚悟が求められるのである。それは後になってからわかるのだ。
*この言葉はマタイ、マルコにもあるが、ルカ福音書には、「日々」が含まれる。それは、日々の生活、
日常のにおいて、自分を捨て、キリストに従うことが重要だということである。そして、主イエスは最
後に「神の国を見るまでは死なない人がいる」と奇妙なことを言われた。神の国を見るとはどういうこ
とか。ここで主は何を言わんとしたのか。
*ルカ福音書では神の国はすでに来ているのである。神の国とはキリスト御自身を意味する。弟子たち
はキリストと出会っている。しかし、再び主とお会いする終わりの時までどう生きるかを主は教えたの
である。それはキリストに従うことであり、自分を捨て、日々、自分の十字架を負うことである。日々、
そのように生きる。終わりまでそのように生きよ。主イエスは弟子たちに、また私たちにそう言われた
のである。
posted by nakamuracho at 13:47| Comment(0)
| 礼拝記録