2023年09月25日

2023年9月24日主日礼拝

2023年9月24日聖霊降臨節第18主日

<教会学校>
聖書  ローマ書12章1−2節
説教  「神に献げなさい」関姉
出席  幼少5、中高1、父母2、教師5

<主日礼拝>
聖書   テモテへの手紙一6章11−16節
讃美歌  13, 379, 385
交読詩編 56編
説教   「信仰の闘い」小友絹代牧師
出席   36名(子供2)
*小友聡牧師は本日、郡山教会に遣わされています。
*今週27日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会、30日(土)午後:30より
讃美歌カフェがあります。
*10月22日(日)特別伝道礼をします。説教者は松沢教会の北紀吉牧師です。
*次週礼拝は、ヤコブの手紙2章1−9節「富と貧しさ」、説教者は小友聡牧師。
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2023年09月17日

2023年9月17日主日礼拝

2023年9月17日聖霊降臨節第17主日

<教会学校>
聖書  ローマ書5章1−5節
説教  「苦難は忍耐を」佐々木兄
出席  幼小3、中高3、父母1、教師7

<主日礼拝>
聖書   コロサイの信徒への手紙3章12−17節
讃美歌  7, 244, 二編191
交読詩編 122編
説教   「キリストの平和」小友聡牧師
出席    38名(子供2)
*礼拝において役員任職式をいたしました。
*礼拝後に臨時役員会がありました。
*次週は、第1テモテ6章11−16節、説教者は小友絹代牧師「信仰の闘い」

<説教要旨>
*コロサイ書はキリスト者はどう生きるか、信仰生活について具体的に教えてくれる。
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けよと教えている。今日の御言葉は、
「ですから」という言葉から始まるが、それは「あなたがたはキリストと共に死んで、
復活させられたのだから」と言うことを指している。つまり、洗礼を受けて新しくされ
たのだからということである。
*このことに続き、赦しが勧められる。人を赦すことは難しいことである。だからこそ、
主イエスは主の祈りで、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と祈れと言われた。
今日の御言葉の到達点は何か。それは「感謝」である。キリスト者として人生の最期に
感謝することができるか。人生の最期に「ありがとう」と言えるか。感謝の言葉で人生
を終える。そういう信仰生活を送れと聖書は教える。
*もう一つ大事なことがある。それは「キリストの平和」である。あなたがたはキリス
トの平和のために教会に招かれている、と聖書は教える。平和はヘブライ語シャローム
である。これは平安のみならず平和をも意味する。前者は心の平安であり、後者は戦
争の対極としての平和である。両方を「キリストの平和」は意味する。私たちは心の平安
を得るためだけに教会に招かれているのではない。引き裂かれ、対立する世界の平和のた
めに祈ることが教会の大切な使命なのである。



posted by nakamuracho at 13:52| Comment(0) | 礼拝記録

2023年09月10日

2023年9月10日主日礼拝

2023年9月10日聖霊降臨節第16主日

<教会学校>
聖書  ローマの信徒への手紙1章16−17節
説教  「福音は救いをもたらす神の力」土肥姉
出席  幼小5、中高2、父母3、教師7

<主日礼拝>
聖書   ガラテヤの信徒への手紙6章11−18節
讃美歌  12, 139, 142
交読詩編 142編
説教   「十字架を誇る」小友絹代牧師
出席   40名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会がありました。
*今週は、13日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。
*次週礼拝は、コロサイ書3章12−17節「キリストの平和」小友聡牧師。
礼拝において、役員任職式をいたします。

<説教要旨>
*ガラテヤ書は戦いの手紙と言われる、論争の書である。ガラテヤ教会の人々
が福音から離れて、律法を守ることへと向かっていたゆえに、パウロは厳しく
批判した。もし律法を守ることことが重要なら、キリストは十字架に掛かる必
要はなかった。
*「こんな大きな字で書く」というのは、強調の意味である。確かに、割礼を
受ければ、教会への迫害はなくなるだろう。しかし、それは誤った選択である。
十字架だけで生きられるかが問われている。キリストは「然り」と同時に「否」
とではない(第2コリント1:18)。
*パウロ自身、十字架が愚かであることを知っている。かつてパウロは教会の人
々を赦せなかった。神の呪われて死んだ人間がなぜメシアなのか。しかし、その
キリストにパウロは出会い、キリストの十字架の死が分かった。十字架にこそ神
の力が現れている。だから、十字架のほかに誇りはない。パウロはそう信じた。
我々もパウロのように十字架を誇り、愚直に生きようではないか。
*17節にキリストの焼き印という言葉がある。焼き印は、その人の所有者を現わす。
それは、我々が主のものとされていると言うことである。ハイデルベルク信仰問答
の問1を思い起こそう。我々が死ぬ時でさえも、なくならないただ一つの慰め。それ
は、この私が主のものとされているということである。この慰めを携えて、今週も
十字架を誇りとして歩もう。
posted by nakamuracho at 16:23| Comment(0) | 礼拝記録