2021年08月08日

2021年8月8日主日礼拝

2021年8月8日聖霊降臨節第12主日

<教会学校>
聖書:   マルコ福音書5:21-24a, 35-43
説教:   「ヤイロの娘を生き返らす」藤川姉
出席:   幼小0、中高1、父母0、教師7

<主日礼拝>
聖書:   使徒言行録20章17−35節
讃美歌:  121、332、294
交読詩編: 23編
説教:   「与える方が幸い」小友聡牧師
出席:   31名(子供1)
*礼拝において、佐藤由紀子姉の転会式をいたしました。
*教会学校教師研修会は延期しました。

<説教要旨>
*パウロはエフェソ教会の長老たちに遺言のような告別説教を語りました。これからエルサレムに行けば、
捉えられて投獄されるに違いありません。しかし、パウロは自分い決められた道を走り抜くことができれ
ば、命すら惜しいとは思わないと語りました。
*パウロはこの説教で、自分が去った後も、長老たちに教会の群れを気遣い、守ってほしいと伝えました。
神の教会を守りなさいと。この説教の最後に、パウロが語ったのが35節です。「受けるよりは与える方が幸
いであると主イエスが語った言葉を思い出しなさい」と。
*「受けるよりは与える方が幸い」という言葉。単純ですが、これはキリスト者の生き方の基本を教えます。
主イエスが命を差し出して十字架で死を遂げた、その主イエスのご生涯はまさに「与える方が幸い」ということです。だから、私たちキリスト者も「受けるより与える方が幸い」という生き方をするのです。それは、コロナ禍の中でうずくまってしまう生き方ではありません。教会に繋がり、命を与えられている私たちは、「受けるよりは与える方が幸い」と言われた主の言葉を思い出して歩みます。
posted by nakamuracho at 14:35| Comment(0) | 礼拝記録

2021年08月01日

2021年8月1日主日礼拝

2021年8月1日聖霊降臨節第11主日

<教会学校>
聖書:  マルコ福音書5章24‐34節
説教:  「主の服に触れた女がいやされる」土肥姉
出席:  幼小2、中高4、父母1、教師8

<主日礼拝>
聖書:  使徒言行録9章26−31節
讃美歌: 二編1、502、224
交読詩編:詩編75編
説教:  「恐れず大胆に」小友聡牧師
出席:  27名(子供)
*8月の諸集会はありません。
*次週10:00より、臨時役員会をいたします。

<説教要旨>
*サウロはダマスコから、使徒たちがいるエルサレムを訪ねた。サウロは弟子たちの仲間に加わろうと
したが、皆が恐れてサウロの回心を信じようとしなかった。しかし、バルナバだけはサウロをサポートし、
サウロを弟子の仲間に加えようと仲立ちした。サウロがダマスコ途上で主イエスに出会い、回心して堂々
と宣教する者になった次第を皆に説明したのである。そのお蔭でサウロはエルサレムで自由に使徒たちと
交流することができた。サウロは堂々と宣教した。こうして、サウロが教会に加わったことによって、諸
教会の伝道が進んだのである。
*このサウロの大きな変化を証言する記述の中に、注目すべき言葉がある。27節ではダマスコでサウロが
堂々と宣教し、28節ではエルサレムでサウロが堂々と宣教した、と書かれてあることである。同じ言葉が
使われている。サウロはダマスコでも、エルサレムでもキリストを語り、ぶれずに堂々と宣教したという
ことである。この「堂々と宣教した」と同じ表現が使徒言行録の最後、28章31節にもある。つまり、伝道
者パウロは、ダマスコでも、エルサレムでも、そして最後のローマでも、ぶれることなく一貫してキリス
トを語り続け、堂々と宣教したのである。このぶれずにキリスト者として生きたパウロの後に私たちも従
う者でありたい。
posted by nakamuracho at 15:27| Comment(0) | 礼拝記録

2021年07月25日

2021年7月25日主日礼拝

2021年7月25日聖霊降臨節第10主日

<教会学校>
聖書:  マルコ福音書5章1−20節
説教:  「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」小友牧師
出席:  幼小3、中高0、父母2、教師8

<主日礼拝>
聖書:  コリントの信徒への手紙二5章16−21節
讃美歌: 1, 225, 二編29
交読詩編:107:1-22
説教:  「和解の務め」小友絹代牧師
出席:  29名(子供0)
*今週28日(水)午前10:30から聖書研究祈祷会があります。

<説教要旨>
*パウロは「肉に従って」キリストを知ろうとはしない、と言った。「肉に従って」とは知識に従ってということ。しかし、知識だけではキリストを知ることはできない。霊によってパウロはキリストを知ったが、それは霊によってキリストに出会うという体験であった。
*またパウロは「キリストにあって」と言うが、それはキリストを信じるということ。キリストを信じて新しくなるということは、新しく創造されるということ。それはキリストを通して神が私たちと和解してくださったということである。神は我々の罪の責任を我々に負わせず、キリストにそれを負わせた。神は我々を一方的に愛された。しかしそれがすべてではない。神が与えて下さった和解の言葉を伝える、という使命が我々に与えられているのである。
posted by nakamuracho at 14:47| Comment(0) | 礼拝記録