2023年9月3日聖霊降臨節第15主日
<教会学校>
聖書 ヨハネ福音書3章16節
説教 「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命」藤川姉
出席 幼小4、中高3、父母3、教師8
<主日礼拝>
聖書 コリントの信徒への手紙二11章7-15節
讃美歌 二編1、369、452
交読詩編 121編
説教 「パウロの誇り」小友聡牧師
出席 44名(子供1)
*本日の礼拝で聖餐式を執行しました。
*礼拝後に役員会がありました。
*次週礼拝は、ガラテヤ6章11−18節、「十字架を誇る」小友絹代牧師。
<説教要旨>
*パウロはコリント教会の信徒たちに、偽使徒たちに気をつけよと語る。それは、
パウロが説いた福音とは異なる教えを人たちがいたからである。彼らはパウロを
中傷し、罵っていた。
*パウロは当時の教会で皆から尊敬される指導者では必ずしもなかった。パウロは
生前の主イエスに会ったことはなく、その意味で使徒の資格はなかったからである。
伝道者としてのパウロは自給自足で伝道し、教会から報酬をもらっていなかった。に
もかかわらず、パウロは信徒から金を要求し、私腹を肥やしているとデマと流す人も
いた。
*今日の御言葉で注目したいのはパウロが自らの「誇り」について語ること。この誇
りとは、キリストを信じ、キリストの福音を伝えて生きることに誇りを持って生きる
ということである。自らの誇りをパウロは繰り返す。これほど「誇り」を繰り返すのは、
パウロ自身に苦しみが多かったからである。実際、すさまじい苦難の経験をパウロは記
している。
*キリスト者として生きようとすれば苦難があるのだ。けれども、誇りをもって生きよ
とパウロは語る。12章でパウロは自分の弱さを誇るのだと語る。外からの苦難だけでな
く、内なる苦しみもパウロにはあった。それがパウロの「弱さ」であった。けれども、
主はパウロに対し、この弱さこそ恵みだと教えた。だから、パウロは自分の弱さを誇る
と言うのである。自らの弱さにこそ神の力が働くからである。それを信じる信仰がパウ
ロだけではなく、我々にも与えられている。我々もパウロと同様にキリスト者として誇
りをもって生きるのである。
2023年09月04日
2023年9月3日主日礼拝
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| 礼拝記録
2023年08月27日
2023年8月27日主日礼拝
2023年8月27日聖霊降臨節第14主日(一日修養会)
<教会学校>
聖書 マタイ福音書16章13−20節
説教 「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」小友聡牧師
出席 幼小3、中高2、父母1、教師7
<主日礼拝>
聖書 マタイ福音書25章14−30節
讃美歌 15、391、338
交読詩編 33編
説教 「自分らしく、ご用のために」松本敏之牧師
出席 47名(子供1)
*本日は一日修養会で、松本敏之先生(鹿児島加治屋町教会牧師)をお招き
しました。礼拝後の修養会で、松本先生は「その名はイエス・キリスト」と
いうブラジルの讃美歌を紹介していただき、皆で共に歌いました。また、講
演の後半では「これまでの歩みを通して受けた恵み」というテーマで、先生は
御自身の証をお語りくださいました。
*次週は、第二コリント11章7−15節が読まれ、小友聡牧師による「パウロの誇
り」と題した説教があります。
<説教要旨>
*タラントンの喩えは、人生を喩えている。その喩えられている人生は、主のために
働くことである。1タラントンは現在の3000万円。タラントンはタレントで、神から与
えられている者を意味する。そのタレントをどう用いるかが問われる。神のためにど
う用いるかである。
*主人から5タラントン預かった人、2タラントン預かった人、そして1タレントン。主
人は不公平ではないかと私たちは思う。しかし、誰に対しても主人は同じ言葉を述べて、
ねぎらっている。「差」は私たちの目では大きいが、神の目から見れば同じなのである。
*主人にとって重要なのは、タラントンを受け取った者がそれをどう扱ったかである。1
タラントンをもらって、結局何もせずに終わる者は厳しく責任を問われる。私たちは自分
を人と比べず、自分に与えられた恵みに応えて生きねばならない。失敗してもいいのだ。
もし失った人がいたとしても、きっと主は赦したはずである。大事なことは、主の委託に
応えることである。
*何もできない、ということはないのだ。才能がなくても、自分の賜物を用いよう。私たち
は手紙を書くことができる。祈ることが出るではないか。その祈りによって支えられる人が
いるのだ。年をとってもできることはある。与えてくださった主人にお返しをするだ。喜ん
でお返しをする人生を送ろうではないか。
<教会学校>
聖書 マタイ福音書16章13−20節
説教 「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」小友聡牧師
出席 幼小3、中高2、父母1、教師7
<主日礼拝>
聖書 マタイ福音書25章14−30節
讃美歌 15、391、338
交読詩編 33編
説教 「自分らしく、ご用のために」松本敏之牧師
出席 47名(子供1)
*本日は一日修養会で、松本敏之先生(鹿児島加治屋町教会牧師)をお招き
しました。礼拝後の修養会で、松本先生は「その名はイエス・キリスト」と
いうブラジルの讃美歌を紹介していただき、皆で共に歌いました。また、講
演の後半では「これまでの歩みを通して受けた恵み」というテーマで、先生は
御自身の証をお語りくださいました。
*次週は、第二コリント11章7−15節が読まれ、小友聡牧師による「パウロの誇
り」と題した説教があります。
<説教要旨>
*タラントンの喩えは、人生を喩えている。その喩えられている人生は、主のために
働くことである。1タラントンは現在の3000万円。タラントンはタレントで、神から与
えられている者を意味する。そのタレントをどう用いるかが問われる。神のためにど
う用いるかである。
*主人から5タラントン預かった人、2タラントン預かった人、そして1タレントン。主
人は不公平ではないかと私たちは思う。しかし、誰に対しても主人は同じ言葉を述べて、
ねぎらっている。「差」は私たちの目では大きいが、神の目から見れば同じなのである。
*主人にとって重要なのは、タラントンを受け取った者がそれをどう扱ったかである。1
タラントンをもらって、結局何もせずに終わる者は厳しく責任を問われる。私たちは自分
を人と比べず、自分に与えられた恵みに応えて生きねばならない。失敗してもいいのだ。
もし失った人がいたとしても、きっと主は赦したはずである。大事なことは、主の委託に
応えることである。
*何もできない、ということはないのだ。才能がなくても、自分の賜物を用いよう。私たち
は手紙を書くことができる。祈ることが出るではないか。その祈りによって支えられる人が
いるのだ。年をとってもできることはある。与えてくださった主人にお返しをするだ。喜ん
でお返しをする人生を送ろうではないか。
posted by nakamuracho at 18:48| Comment(0)
| 礼拝記録
2023年08月20日
2023年8月20日
2023年8月20日聖霊降臨節第13主日
<教会学校>
聖書 第2コリント12章1−3節
説教 「聖霊を信ず」佐々木兄
出席 幼小5、中高6、父母-、教師8
<主日礼拝>
聖書 ヤコブの手紙1章19−27節
讃美歌 6, 294, 527
交読詩編 75編
説教 「信仰の証し」小友聡牧師
出席 38名(子供2)
*次週は一日修養会です。鹿児島加治屋町教会牧師、松本敏之先生
をお招きし、講演を聞きます。礼拝後から午後2時までです。申し込
みは本日まで。次週の礼拝説教者は松本先生「自分らしく、ご用のた
めに」。
<説教要旨>
*ヤコブの手紙では、「御言葉を行う人になりなさい。ただ聞くだけの人であってはいけない」
と語られる。御言葉を行うことを忘れず、実践する人になれ、と強く勧められる。
*これは、「行い」を強調する点で特徴的である。2章14節には、信仰があると言っても、行いが
なければ何の役に立つかとも記される。これに対して、パウロは「信仰にによる義」を強調する。
行いに拠らず、ただキリストを信じる信仰によって人は救われると。行いではなく、信仰こそが重
要だとパウロは繰り返す。
*聖書には真逆のことが教えられているのか。そうではない。ヤコブの手紙では、教会での誤った
考え方に対して、教えているのだ。行いによらず、ただ信仰によって、と強調されることによって、
キリスト者には行いが求められないという極端な信仰理解がされていたのだ。ヤコブの手紙はそれを
糺し、御言葉を聞くだけの人にはなるな、御言葉を行う人になれと教えたのである。
*私たちは、もちろん行いによって救われるのではない。罪人であるこの私がただキリストの一方的
な赦しの愛によって救われたのである。その意味で、律法の行いは意味を持たない。けれども、信仰
によって義とされ救われたならば、その恵みに応えずはいられない。恵みに応答して生きるのである。
そこに私たちの行いが生まれる。信仰から行いが結実するのである。「御言葉を聞く」ということは、
ただ単に受け身ではなく「御言葉に聞き従う」ことなのである。
<教会学校>
聖書 第2コリント12章1−3節
説教 「聖霊を信ず」佐々木兄
出席 幼小5、中高6、父母-、教師8
<主日礼拝>
聖書 ヤコブの手紙1章19−27節
讃美歌 6, 294, 527
交読詩編 75編
説教 「信仰の証し」小友聡牧師
出席 38名(子供2)
*次週は一日修養会です。鹿児島加治屋町教会牧師、松本敏之先生
をお招きし、講演を聞きます。礼拝後から午後2時までです。申し込
みは本日まで。次週の礼拝説教者は松本先生「自分らしく、ご用のた
めに」。
<説教要旨>
*ヤコブの手紙では、「御言葉を行う人になりなさい。ただ聞くだけの人であってはいけない」
と語られる。御言葉を行うことを忘れず、実践する人になれ、と強く勧められる。
*これは、「行い」を強調する点で特徴的である。2章14節には、信仰があると言っても、行いが
なければ何の役に立つかとも記される。これに対して、パウロは「信仰にによる義」を強調する。
行いに拠らず、ただキリストを信じる信仰によって人は救われると。行いではなく、信仰こそが重
要だとパウロは繰り返す。
*聖書には真逆のことが教えられているのか。そうではない。ヤコブの手紙では、教会での誤った
考え方に対して、教えているのだ。行いによらず、ただ信仰によって、と強調されることによって、
キリスト者には行いが求められないという極端な信仰理解がされていたのだ。ヤコブの手紙はそれを
糺し、御言葉を聞くだけの人にはなるな、御言葉を行う人になれと教えたのである。
*私たちは、もちろん行いによって救われるのではない。罪人であるこの私がただキリストの一方的
な赦しの愛によって救われたのである。その意味で、律法の行いは意味を持たない。けれども、信仰
によって義とされ救われたならば、その恵みに応えずはいられない。恵みに応答して生きるのである。
そこに私たちの行いが生まれる。信仰から行いが結実するのである。「御言葉を聞く」ということは、
ただ単に受け身ではなく「御言葉に聞き従う」ことなのである。
posted by nakamuracho at 16:19| Comment(0)
| 礼拝記録