2022年08月02日

2022年7月31日主日礼拝

2022年7月31日聖霊降臨節第9主日

<教会学校>
聖書   出エジプト記3章1−12節
説教   「モーセの召命」小友牧師
出席   幼小2、中高4、父母2、教師7

<主日礼拝>
聖書   コリントの信徒への手紙二6章1−10節
讃美歌  55、404、298
交読詩編 19編
説教   「今こそ恵みの時」
出席   24名(子供0)
*8月の役員会、聖書研究祈祷会、讃美歌カフェはお休みします。

<説教要旨>
*パウロは「神の恵みをいたずらに受けてはなりません」と語る。この「神の恵み」
とは、キリストが私たちの罪の身代わりとなって、十字架でし遂げられ、それによっ
て私たちがキリストに命を与えられたということである。この恵みを無駄にしないた
めにはどうしたらよいか。聖書には「今こそ恵みの時、今こそ救いの日」と書かれて
いる。
*今こそ恵みの時とは、今日の日曜日のこと。日曜日ごとに、私たちは教会で「神から
いただいた恵み」を知る。なぜ日曜日に礼拝するのか。それはこの日にキリストが甦っ
たからである。礼拝はただ過去の救いの出来事を想起するのではない。礼拝は、救いの
出来事が今ここで起こっていることを体験するのである。いつでも「今日、キリストは
甦った」と告白するのである。
*過去ではなく、今日、この日キリストは死者の中から甦った。キリストは今ここに生
きておられる。このお方を礼拝する。それゆえに、今こそ恵みの時、今こそ救いの日な
のである。ディケンズの小説「クリスマスカロル」の主人公がクルスマスを悟ったのと
同様である。今こそ恵みの時であること私たちは礼拝で知り、この日を喜ぶのである。
神からいただいた恵みを共に味わい、共に生きるのが教会である。
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2022年07月24日

2022年7月24日主日礼拝

2022年7月24日聖霊降臨節第8主日

<教会学校>
聖書   創世記45章1−8節
説教   「宰相ヨセフ」関姉
出席   幼小3、中高4、父母2、教師8

<主日礼拝>
聖書   テモテへの手紙一3章14−16節
讃美歌  3, 352, 191
交読詩編 119編129−144節
説教   「神からの真理」小友絹代牧師
出席   26名(子供0)
*今週27日(水)午前10:30より聖書研究祈祷会があります。

<説教要旨>
*パウロはテモテに手紙を書いたが、当時、パウロは深刻な状況にあった。パウロは教会の伝道の現場か
らこのテモテに手紙を書き送った。今日の御言葉に、教会の土台は神の真理であり、それは敬虔の秘義だ
と書かれている。その秘義とは、キリストによって明らかにされた真理である。引用されている16節の言
葉は教会で歌われていた讃美歌である。これは1章15節の「キリストは罪人を救うために世に来られた」
ということである。パウロはこのことをテモテに伝えようとしている。
*テモテはパウロの弟子であり、信仰によるまことの子と呼ばれている。テモテはしかし、同時にパウロ
の同労者でもある。パウロはテモテに支えられた。テモテのお蔭でパウロは伝道者として生きることがで
きた。テモテを信頼していられたからこそ、パウロは伝道者であり続けることができたのである。伝道者
もまた信徒も同じである。仲間がいるからこそ信仰生活ができるのである。


posted by nakamuracho at 12:59| Comment(0) | 礼拝記録

2022年07月17日

2022年7月17日主日礼拝

2022年7月17日聖霊降臨節第7主日

<教会学校>
聖書  創世記37章23−36節
説教  「売られるヨセフ」佐々木兄
出席  幼小4、中高4、父母3、教師7

<主日礼拝>
聖書   ガラテヤの信徒への手紙5章2−11節
讃美歌  6, 285, 331
交読詩編 42編
説教   「十字架のつまずき」小友聡牧師
出席   32名(子供1)
*今週23日(土)午後2:30-4:00に讃美歌カフェがあります。

<説教要旨>
*パウロはガラテヤ教会の信徒たちに信仰義認について教えています。教会の信徒たちはまだ
ユダヤ教とキリスト教の区別がつきません。問題は、洗礼を受けた者が割礼を受けるべきかど
うかでした。パウロはもし割礼を受ければ、十字架のつまずきをなくすことになる、と厳しく
批判しました。
*十字架のつまずきという言葉をパウロは使います。つまずきとは妨げるものという意味です。
スカンダロス、これはスキャンダルの語源です。十字架のつまずきとは、神に呪われて十字架
で処刑されたキリストをキリスト者は信じるからです。ユダヤ人には躓きでした。けれども、
この躓きはなくてはならないもの。これがなくなれば、キリストがなさったことは見意味にな
るのです。
*十字架のつまずきは、受け入れることが難しいことがらだというです。しかし、この躓きであ
るキリストの十字架を通して、私たちは救いに導かれました。否定媒介と言えます。躓きという
なら復活も躓きです。けれども、この躓きを私たちは毎週告白します。伝道もそうです。伝道な
どやめて信仰を個人の心の問題として考えるなら、伝道も躓きです。けれども、教会は伝道する
共同体として始まったことを忘れてはならない。つまずきは与えられた恵みです。立派にはなれ
なくても、キリスト者として矜持を貫きたいと思います。
posted by nakamuracho at 16:03| Comment(0) | 礼拝記録