2022年05月08日

2022年5月8日主日礼拝

2022年5月8日復活節第4主日

<教会学校>
聖書  創世記2章1−3節
説教  「安息日の祝福」吉田姉
出席  幼小3、中高1、父母1、教師9

<主日礼拝>
聖書   ヨハネ福音書13章31−35節
讃美歌  二編1, 342, 389
交読詩編 138編
説教   「新しい戒め」小友聡牧師
出席   34名(子供1)
*礼拝後に教会学校教師会をしました。 
*5月22日(日)と29日(日)に教会ミニバザーをします。献品を歓迎します。
*4月24日の教会総会で役員改選があり、関憲子姉、藤川いつ子姉、阿部薫姉、阿部玲二兄が
選出されました。
*今週11日(水)午前10:30から聖書研究祈祷会があります。

<説教要旨>
*主イエスは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と命じた。これは、主イエスが十字架に掛けられる前の晩に語られた。主イエスの遺言である。「互いに愛し合いなさい」とは信仰共同体、つまり教会に向けられた命令である。しかし、現実の教会はどうか。今日、20億人いると言われるキリスト者の、つまり教会の歴史は対立と戦いの連続ではなかったか。ロシアとウクライナの戦争も正教会が関係しているとすれば、やりきれない思いがする。
*主イエスは「新しい戒め」と言われた。新しいとは何か。それは、旧い戒めと対比されている。旧約では、愛することは行いとして命じられるが、それは愛の行いによって神の救いを得られるということ。しかし、それでは愛の行いは点数化され、自慢の種になる。新約聖書は信仰義認を教える。それは、愛の行いよりも、どうして愛するのかを大事なことと考える。キリストが私たちの罪の贖いとして自らを犠牲にしたのだ。このキリストの愛を知った私たちはそれに応えて、愛へと促されるのである。これが「新しい戒め」である。この新しい戒めとして、互いに愛し合いなさいということを主イエスが言われたのだ。
*愛は、上から目線で愛を与えることではなく、傷ついた友に寄り添うことではないか。若松英輔さんの本からそれを教わった。今も地球上で傷ついている友がいる。キリストの愛を知る私たちは、どのように寄り添うことができるだろうか。キリストの赦しの愛に促されて、たとえどんなに小さくても愛に生きる生き方をしたい。そのように生きたいと願う。


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2022年05月01日

2022年5月1日主日礼拝

2022年5月1日復活節第3主日
<教会学校>
聖書  創世記1章24−31節
説教  「人間の創造と祝福」土肥姉
出席  幼小2、中高1、父母1、教師8

<主日礼拝>
聖書   ヨハネ福音書10章7−18節
讃美歌  21、二編41、211
交読詩編 23編
説教   「まことの羊飼い」小友絹代牧師
出席   31名(子供0)
*新年度の教会標語は引き続き「御言葉を食べ、御言葉を楽しむ」(エレミヤ15:16)です。
*礼拝後に役員会がありました。
*5月22日(日)礼拝後にミニバザーがあります。献品を歓迎します。
<説教要旨>
*11節「私は良い羊飼いである」において、旧約の詩編23編が響き合う。神は牧者としてイスラエルの
民を導く。
*11節「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とはどういうことか。羊は弱い存在である。人間がそれに
喩えられている。人間は何でもできるかに見えるが、人間の弱さと限界を痛感する。羊飼いのいない現実
がある。人間は死んでいく存在であり、自らの問題を解決できない憐れな存在だ。
*しかし、主イエスが私たちに代わって罪を負い、死んでくださった。主イエスが十字架で死んだのは、
私たちの罪の身代わりになったということである。私たちが自分で贖えない罪を主イエスが代わりに贖っ
た。この聖書の言葉が私たちに迫って来る。主は我が羊飼い。


posted by nakamuracho at 14:13| Comment(0) | 礼拝記録

2022年04月24日

2022年4月24日主日礼拝

2022年4月24日復活節第2主日

<教会学校>
聖書  創世記1章1−10節
説教  「天地創造」奥野姉
出席  幼小4、中高2、父母2、教師8

<主日礼拝>
聖書   ヨハネ福音書20章19−31節
讃美歌  55、151、243
交読詩編 111編
説教   「トマスの信仰」小友聡牧師
出席   37名(子供1)
*礼拝後に教会総会がありました。
*27日(水)聖書研究祈祷会があります。
*5月22日(日)礼拝後に教会ミニバザーをします。献品を募ります。

<説教要旨> 
*主イエス復活の夕方、弟子たちの集まりに復活の主が現れ、「平和があるように」と言われました。その中にトマスはいませんでした。弟子たちは皆、復活の主イエスを証言しましたが、トマスは「自分はその手に傷跡を見、脇腹に手を差し入れなければ信じない」と言いました。
*しかし、八日後の日曜日、弟子たちが集まっていると、再び復活の主イエスが現れました。主はトマスに「私の傷跡を見よ、手を脇腹に入れて見よ。信じる者になれ」と言われました。トマスは主の前にひれ伏し、「わが主よ、わが神よ」と言いました。これはトマスが信仰を告白し、主イエスを礼拝したということです。
*トマスは復活を探究し、客観性を探究しようとしました。しかし、それによって得られるのは「キリストについて知ること」であり、「キリストに出会うこと」ではないのです。キリストとの出会いは、このお方に3人称ではなく、2人称で出会うこと。出会いとは常に2人称です。キリストというお方に出会う。私と言う存在に向かって「あなた」と呼びかけて下さるお方に出会わなければ、また、私自身がこのお方に向かって呼びかけることがなければ、出会いは起こらないのです。トマスが「わが主よ、わが神よ」とひれ伏したとき、初めてキリストとの出会いが生まれました。私たちもキリストを信じ、またキリストに出会うために、礼拝に招かれています。
posted by nakamuracho at 15:08| Comment(0) | 礼拝記録